●昨日、『名探偵 木更津悠也』を読んだ勢いで、最初の短編を読んだところで止まっていた『メルカトルかく語りき』(麻耶雄嵩)を改めて最初から通して読んだ。下は前に読んだ時の感想。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110610
●今回読んで、これを面白いと言っていいのかどうかは分からないが、とにかく納得はした。
最初の三つの短編を読んだ時点では、この連作は「ネタ」先行で、その「ネタ」自身はつまらないとは言えないけど(とはいえ、すばらしく画期的とまでは言えない)、ネタに従属し過ぎていて、「麻耶雄嵩の小説」としての面白さがその分目減りしてしまっているように感じられた。メルカトル鮎の「毒」も、最初の「死人を起こす」以外はネタにひっぱられて弱くなっているように感じた(「毒」よりも「ネタ」の方が強い、というのか)。しかし、四作目の「答えのない絵本」を読んで、これが面白いのかどうかはともかく、ここまでやるのならばこれはこれで納得せざるを得ないだろうとは思えた。これはとにかく大したものではある、と。論理への軽蔑や敵意が論理の酷使として表現される麻耶雄嵩の作品において、ともかく一度はこれをやる必要が、ここを通る必要があったのだということは納得した(それに、「答えのない絵本」の前半では麻耶雄嵩としては例外的に「小説としての膨らみ」を感じさせるのだ)。しかしこのような作品は、未知なものへ向かってゆく発展的な展開によって生まれたものというより、演繹的な帰結としてあるようなもので、「一度しか使えないネタ」でしかない。
実際、麻耶雄嵩の読者であれば、「答えのない絵本」の後、最後の「密室荘」で何がなされるのかは、読む前からだいたい想像がついてしまうのではないか。これはとても微妙なところで、「答えのない絵本」はギリギリのところで踏み止まっているけど、「密室荘」になると、行き過ぎてしまって、たんに安易なメタフィクションみたいなものになってしまっている(たとえばSFだとすれば、「合理的な判断」の意味が根底から変わってしまった量子力学以降では「収束」や「密室荘」のような話はけっこうありふれているのではないか)。確かに、「密室荘」できれいに完結するのだけど、こういうものは、完結したとたんに色あせてしまうものだと思う。理に勝って非に落ちるというのか、もし「答えのない絵本」だけがどーんとあれば、「おーっ」と驚くかもしれないけど、前後の短編がそれを「説明」してしまっているので、「面白い」ではなく「納得する」になってしまう。
重要なのは、ここに行き着く(行き着いた)ことではなく、ここからどこへ向かうかということであるように思う(こういうのを、アンチミステリの極北、みたいに言ってしまうと、何かが「閉じて」しまうと思う)。
●作品単位でみると、「死人を起こす」には麻耶雄嵩的な「毒」が感じられ、「答えのない絵本」には、これには納得させられざるを得ないという突き抜け感があるのだが、それ以外の作品では、この本を「連作短編集」としてまとめるための「ネタ」が先行していて、「ネタ」に従属している分、作品として弱くなっているように思う。