●『名探偵 木更津悠也』(麻耶雄嵩)。ああ、麻耶雄嵩だなあと思ってニヤニヤしながら読んだ。いかにも麻耶雄嵩というぶっ飛んだ感じは抑制されているけど、だからこそじわじわとにじみ出る麻耶雄嵩感。
麻耶雄嵩においては、「論理」が徹底して軽蔑されているからこそ、世界が論理で埋め尽くされるという感触がある。この作品でも、リテラルな次元での事件や謎解きは、複雑ではあるけど薄っぺらい。世界はリテラルには、薄っぺらなイメージとその相互関係で出来ている。探偵が介入し、それなりに秩序立った解答を与えうるのは、そのような薄っぺらなリテラルな次元のみであるようだ。たとえば法月綸太郎においては、論理的なアクロバットは常識的なリアリズムへの敵意としてあるように思う。対して麻耶雄嵩においては、論理の論理そのものに対する敵意が論理の酷使に向かう。それは時に、アクロバットを超えてあからさまな破綻にまで突っ走る。この作品はそこまでの強度はもたないし、目指されてもいない。この作品での論理への軽蔑は、探偵への軽視としてあらわれる。ワトソン役によって過剰に祭り上げられたハリコの探偵。事件解決はワトソンによって誘導され、それどころか、ワトソンは事件そのものを準備し、誘導しさえする。探偵の行使する論理は、ワトソンの敷いたレールの後追いしか出来ない。
オブジェクトレベルにいる探偵と、メタレベルから彼を操作、誘導するワトソン。ワトソンからみれば、探偵および探偵が取り扱う事件(そこで行使される論理)は「操作の対象」でしかなく、つまりそれはリアルなものではない。だがここで、論理への軽蔑はそのまま論理への愛でもある。ワトソンは、操作の対象である限り、ファンタジーとしての「論理」を愛しており、探偵を愛している。ワトソンは探偵を上から見下しつつも、探偵を愛し、探偵への賞賛を惜しまない。探偵はワトソンの人形である。
だが、これだけでは退屈だ。麻耶雄嵩の作品ではほとんど常に、「一人のなかに二人がいる(わたしのなかにあなたがいる)」と「二人が実は一人である(あなたは実はわたしである)」というあやうい分裂の要素が含まれている。ワトソンは、探偵のメタ(上位)であるだけでなく、探偵の潜在性(下位)でもある。ワトソンが探偵を操作するというだけでなく、そもそも探偵がいなければワトソンは(具体的イメージとしては)存在しない。探偵は、それ自体としては抽象的なものでしかない(事件-世界外にいる)ワトソンを、具体的なイメージ(事件-世界)に結びつける。ワトソンにとって操作対象でしかない論理(論理を構成する項としてのイメージ)は、探偵を媒介とすることによってかろうじて生きられるものとなる。ワトソンは探偵には決してなることは出来ず、探偵によって自身が軽蔑しもする論理のなかに着床する。ワトソンと探偵は、こころとからだのように一つであり、こころとからだのように二つである。このような、気色悪い癒着と不安定な分裂の感触を、麻耶雄嵩はいつもなまなましく捉える。
そして事件がなければ探偵は存在しない。ここで事件とは、薄っぺらなイメージ相互の複雑な関係(リテラルな事件そのもの)のことではなく、幽霊のことだ。幽霊は明らかに実在するが、ワトソン-探偵の行使する論理は、そんなものは存在しないという前提があってはじめて有効に作動する。ワトソン-探偵の「この世界」での能動性は、事件の背後に常に存在する幽霊を「存在しない」と見なすことの上に成り立ち、その前提によってしか確保されない。だからこそ、彼らの論理(イメージ間の相互関係)は常に薄っぺらである。そしてワトソン-探偵はそれを自覚してはいる。
ワトソンがメタレベルにあると書いたが、その位置は、この世界には幽霊は存在しないと仮定することによって可能になる位置なのだ。しかし幽霊は存在するのだから、ワトソンのメタレベルは偽のものでしかない。実は幽霊こそがメタレベルにあり、幽霊からみればワトソンと探偵は同列にいる。だからこそ、ワトソンと探偵は分裂の気配を含みながらも決して分離し切ることは出来ず、半分だけズレながら一体でもあり、「一人のなかに二人いる」と「二人は実は一人」の間を行き来する。