●『さよなら神様』(麻耶雄嵩)を読んだ。超絶ロジックで、今読んでいるところの「意味」を、常に疑い、裏返したり、引いてみたり、前提を変えてみたりして考えながら読んでも、ああ、そうきたか、と、さらに斜め上をゆく展開が待っている。その点では、最後まで緩むことがなく、錯綜したロジックと悪意とに翻弄されることを「楽しむ」ことができる。まさに麻耶雄嵩を堪能する、という感じ。
(とはいえ、読みながら何度も、何故、自分はこのような、実質的な利益は何もないロジックと、人を嫌な気持ちにさせる悪意とを、わざわざ好き好んで「楽しもう」とするのだろうかという疑問に襲われる。)
ただ、論理的に精密である分、あの(ほんとうに乱暴で酷い話である)『神様ゲーム』に比べると「神様」のインパクトが減った感じはする。『神様ゲーム』の神様は、論理そのものを可能にする、論理の基底にある無根拠のような感じだったのに対して、『さよなら神様』の「神様」は、神様であるのに論理の内側に組み込まれてしまっているという感じになっている。神様の無根拠さを、人間が利用した(のかもしれない)、という話になっているので。
(ここで「神様」は、あくまで「わたしにとっての無根拠」であって、世界にとっての無根拠ではなくなって、神様が内面化した、ともいえる。)
だがそれは、「神様」の問題ではなく「人間」の問題なのかもしれない。主人公は、「神様」が神様であることを信じず、予知能力や千里眼という能力をもつ「超能力者」に過ぎないと考えているし、この作品内のロジックでは、それでも充分に成り立つ。でもそれは、神様がその程度だからではなく、人の表象能力、あるいは人が扱い得る論理が、そこまでしか届かないからに過ぎない、とも言える。超能力者なのか神様なのか決定不能なXがいて、Xは自分のことを神様だと言う。Xを、超能力者としても、神様としても、どちらも矛盾はないから、どちらも否定できない。故に、Xが「神ではない」と言い切ることは出来ない。神は、否定し切れない絶対性として作用する。
一神教的な「強い神」が、決定不能としてしか表象出来ないとしたら、それはやはり「弱い」ようにも感じられる。ここで、神の神性を支えるもう一つのものは、出来事の進行が、いちいち主人公にとって都合の悪い方向へと転がってゆくという点で、それが決定論(運命)的な調子を強く帯びているところだと思われる。だがその点も、物語の最後には疑問が生まれ、決定不能となる。
この、決定不能エンドというのは、神様の絶対的な「強さ」を抑制し、後退させて「人間」の領域(神さえも利用する自然科学?)を開きつつも、神様を完全に殺すことはしない。エンターテイメント的な物語の終わり方としては、とても健康的で、よいものだと言える。しかしそれによって、一神教的な強い「神様」を物語内に導入したインパクトはやや減じてしまったようには、感じられる。