カイエ・ソバージュの三巻目までは基本的に、「対称性」の大事さを一貫して語ってきた中沢新一が、『神の発明』では、人類にはもともとそこから逸脱してしまう力(傾向)もまた内包されているのだということを語る。その、対称性を超越しようとする力のあらわれとして宗教がある。そしてその宗教においても、超越性と低次の対称性が共存する多神教のなかから、ある質的な変換によって超越性が対称性を抑圧する一神教が発生する。これもまた自然史的な必然である、と(だから単純な一神教批判ではない)。しかし一神教は人類史のなかでも特異なものであり、しかしその特異なものに、世界全体を変えてしまうくらいの「力の放出」を開放してしまうキーがあった、と。
●おとといの中沢読書会で、西川アサキさんの質問に近藤光博さんが答えて、「厳密な意味での一神教は人類史のなかでもセム的な一神教しかない」と言っていた(この場面はUSTの録画でも観られる、二時間十九分から二十分あたり)。
http://www.ustream.tv/channel/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A8-%E3%82%BD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5-%E7%A5%9E%E3%81%AE%E7%99%BA%E6%98%8E-%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E4%BC%9A
これはすごく驚くべきことで、たとえばもし本当に、「自然」を「対称性」においてではなく「対象物」として切り離してみるという見方(切断)が、一神教によってはじめて可能になったのだとしたら、自然科学というものも一神教によって可能になったわけだし、もっと言えば、無神論というものもまた、一神教によって可能になったと言える。
最近ぼくは物理学の解説書のようなものばかり読んでいるのだが、人類は本当に、素粒子的なスケールから宇宙的なスケールまで、われわれの日常的な感覚ではイメージすることすら困難なくらいにまったくとてつもないところまでわかるようになっていて(物質や宇宙はまったくとんでもない姿をしている)、しかしこれはまさに(中沢新一が批判するような)マッチョな自然科学の成果であり、もし人類の頭のなかに一神教が発生しなかったとしたら、この宇宙についてここまでわかるようには決してならなかったのだとすれば、その一神教の発生するチャンスが何万年にもおよぶ人類史のなかでたった一度しかなかったという事実に、そしてたった一度発生した一神教がこんなにも強烈に世界を支配し、世界全体を変えてしまったという事実に、芸もなにもない言葉だけど、「まったくとてつもないことだなあ」と感じざるを得ない。人類は、宇宙についてこんなに深くまで知るようになるために、社会をこんなにひどいことにしてしまったのか、みたいな気さえする(そしてそれは「この宇宙」そのものに強いられて、そうなったのかもしれない、とか)。そして、この宇宙そのものが、まったく質の低い「出来過ぎ」のシミュレーションであるかのようにさえ感じられてきてしまう。
●たとえば数学だったら、とてつもなく頭のよい人であれば独自に自律的に研究をすすめることも可能かもしれないけど、物理学だと、観測や実験を伴うだろうから、そして現在では、それは素粒子レベルの極少や宇宙レベルの極大なものとなるから、そこには途方もない(まさにグローバルな規模での)資金と政治が必然的に絡んでくる。しかも、たとえばLHCを使ってヒッグス粒子を発見したからといって、そこにつぎ込まれた膨大な資金や労力にみあうリターンなどはあり得ないだろう。にもかかわらずそれが実行され、維持されつづけるということは、そこには強力な超越性への傾きというか逸脱の力が働いているわけで、そのような、超、超越性への、超マッチョな意思と、現在のグローバルな資本主義の形とが通底しているとすれば、そのことについてどう考えればいいのだろうか。
●つまり、人類がもともともっているそのような強烈な毒を、地域主義のようなもので相殺できるのだろうか、と(これは何かに対する批判ではない、毒をもって毒をせいするにはどうしたらよいのだろうか、と、途方に暮れているということだ)。
●たとえば、アインシュタイン相対性理論を考えていた頃には宇宙が膨張しているということはわかっていなかった。宇宙ははじまりも終わりもない何かというイメージだった。しかし宇宙の膨張が観測され、宇宙が膨張しているとすれば、その膨張がはじまった起点(宇宙の始まり)があり、そしておそらく終点もある、ということになる。そして「この宇宙」の具体的な「年齢」まで割り出されることになる。さらに、最近では宇宙の膨張速度が加速していることが観測からわかった。宇宙全体のエネルギーが一定であるとすれば、当然膨張の速度はだんだん遅くなるはずで、それが加速しているということは、どこか異次元のようなところからエネルギーが無尽蔵に湧き出していると考えるしかなくなる。それは一体どういうことのなか、と。
このようなことが明らかになったのはせいぜいこの百年くらいのことに過ぎず、そしてこの爆発的な理解の深まりの起点に一神教の発生があるのだとすれば、そしてその発生が人類において一度だけ起こった事件であるとすれば、それはなんととてつもないことかと思わざるを得ない。