横浜美術館の「20世紀末・日本の美術---何が語られ、何が語られなかったのか」については、用事があって途中退出して、一時間くらいしか聞けなかったので突っ込んだ感想などは書けないけど、これはやはりとても貴重な試みなのではないかと思いながら聞いていた。
こういう近い過去の「歴史」は、客観的に記述しようとしても必ずある偏りが生じるし(どうやったって必ずどこかから文句がくる)、だからといって、あくまで「わたしにとっての○○年代」みたいな主観的な話だと、その人の個人史のようなものになるし、最悪、いい気な親父の昔話でしかなくなる。ここでは、一方で、一人一人の作家がその時代のなかで仕事をつづけることを通じて時代をどうみていたのかという話でありつつ、他方でそれが、複数の、同世代とはいえ、作風も来歴も立ち位置も大きくことなる三人の作家のそれぞれの視点が組み立てられたものとして立体化されて呈示される。客観的でも主観的でもなく多視点的で、そうであることで、そこにもう一つの別の視点(その話を聞いている者)が付け加えられることによる再編成に対して開かれている感じがする。つまりここで呈示されているのは(正しい)「結論」ではなく、多数の「入り口」であり、アクセスへのとっかかりのために編成された「資料体」なのだと思う。それ自身として客観的な「正史」を目指すのでもなく、といって主観的な思い出話に閉じるわけでもない、絶妙な形式とバランス感覚こそが、この試みのとても優れたところであるようにぼくには感じられる。一方に、参照されるべき正しいものとしての正史があり、他方にそれに抗する複数のオルタナティブがある、という構図にはまっていないところこそが重要であるようにぼくには思われる。
まず、任意の三つの視点があり、その並行がある。三つの仮の視点が並置されることによって、そこに相互干渉が起こり、絡み合いが生じ、一つの図柄(構造体)が描かれる。しかしこの三つの視点は任意のものであり仮の項であるから、それが五つになったり八つになったり、あるいは二つになったりすることを仮想することも可能だ。そこには、共通する部分を含みながらそれぞれ違った構造体が発生するだろう。ここではそのようなモデルが示されているのではないか。ここにあるのは三つの視点から構成された限定的な構造体でしかないが、であることによって、それ以外の者がそこから刺激され、それを利用し、そこから別の何かを組み立てるための質量となり得る。ここで語られる「内容」そのものよりも、ぼくにとってはこちらが貴重であるように思う。逆にいえば、このような試みが、参照されるべき(あるいは「批判されるべき」と言ってもまったく同じだが)「根拠」とされてしまうと、あまり意味がなくなってしまう。
ようするに、「わたしの」という意味でも「一」ではなく、「正史(正しいもの・あるいは権威)」という意味でも「一」ではなく、そしてさらに、そのような「一」に「抗する」ものとしての「多(オルタナティブ)」でもない、そういう構図に把捉されていない、というところが稀有であるように思われる。
(たとえば、この三者が、互いの立場から相手の立場に対して批判的に言及する、みたいなことになると、それは凡庸なディベートの場となり、「真理」を追究する「法廷」となってしまって、三つの視点による立体的構造物にはならなくなる。)