●まだはじめの2章を読んだだけだけど、『量子力学は世界を記述できるか』(佐藤文隆)が面白い。ドイッチュが量子力学を「実在のファブリック」を追究するものだと考えるのに対し、逆の立場というか、佐藤文隆は、量子力学(の半分)はあくまで、「行動のための情報理論だ」としている。ただ、ここで著者の態度はドイッチュのようにすっきりしているというわけではない。その揺れはあとがきにはっきり書かれている。
≪(…)言いたいことは実は単純で、「熱力学もhのない量子力学の半分も、行動のための情報理論であり、それが科学の人間社会の中での公共的価値だ」ということだ。「そんなら、何故そうスッパリ言わないのか?」と詰問されれば、自分にそこまで言い切る論拠も確信も勇気もまだないということである。それと、未練があって、そこで飛躍できないということである。何に対する未練かと問われれば、それは自分が生きてきた人生といってもいい。≫
つまりこの著者も、ドイッチュと同様に、量子力学は実在のファブリックを追究するものだと考え、そのような考えによって研究者として研究をつづけてきたということだろう。しかし、そのような研究の追究が進展するなかで、そのことに対する疑問に否応なくぶつかったということだろう。実際、量子力学を実在のファブリックだと考えるならば、ドイッチュのような多宇宙論(多世界解釈)などというとんでもなく常識外れの場所に行きついてしまい、そのような結論は現在の社会を構成する常識とはかけ離れているので、「社会の公共的価値」としての「科学」の位置を危うくする。まず、そのことに対する強い危機感が著者にはあるようだ。そのような危機感が、量子力学を、世界の実在に関する客観的な描像としてではなく、主体的な行動のための指針となる情報理論として解釈し展開するべきだという主張に著者を向かわせる。実際、ボーアによるコペンハーゲン解釈という、「難しい問題や矛盾はいったん保留としておいて、出来ることだけを追究していこう」というプラグマティックな提案-方針が、量子力学を爆発的に発展させたのだし。著者は「論語」の「鬼神、語らず」を引きつつ、客観(実在のファブリック=鬼神)への傾倒を次のようにけん制する。≪鬼神に気がいくのはわかるが、それは敬って遠ざけておき、そんなことに熱中しないのがいい。世の中には、そんなことより大事なことがあるでしょ≫。しかしもう一面で著者は、本当にそれでいいのかという迷いも残している。それは他でもない著者自身が、鬼神に魅入られて研究をつづけてきた、その実在への手触りがあるからなのだろう。
そしておそらくこれは、著者の個人的な揺らぎということではなく、現代の物理学、量子力学が置かれている微妙な位置を表現しているのだと思う。これはたとえば、中沢新一などが神話=対称性と宗教=超越性の対立として語っていることとパラレルではないかと思う。この本の著者は、科学的な知は、「社会の公共的価値」として、超越性へと傾くのではなく対称性を指針とすべきだと言っている。しかし同時に、そもそも超越性へのつよい傾倒がなければ、現代の物理学や量子力学そのものがあり得ないともいえる、と。