●気温は高めだったが、だからこそいっそう、既にもう夏でないことがはっきりした。一昨日の22日に秋なったのだということが改めて思い知る。
●10月9日のイベントで使う写真を選ぶ作業をする。ここ一、二年で撮影したものに限っても、撮りっぱなしで全然整理されていない数千枚の写真がある。ここから30枚程度、適当なものを選ぶ(これを書いている現時点ではまだ選べていない)。もし紙にプリントされていれば、数千枚くらいならばそれを処理するのは大した手間ではない。手に取ってめくるようにダーッと見ていきながらいくつかの山に分けて、山に分けたものをさらに何度もチャックして分けてゆき、その過程のなかで、ふと、あっちの山にあんな写真があったはずだと思いついたりして、ある山から別の山への移動があったりする。そういう作業を何度も繰り返し、つづけるうちに、自然にどんな感じでいこうかという方針がかたまってくるし、候補も絞られてくる。なんというのか、情報を空間のなかに配置し、配置換えしてゆく自由度がとても高い。
でも、紙に焼いていないデジタル写真なので、写真を見るためにはたった一つしかないモニターにその都度呼び出さなくはならない。複数の写真を並べて見るという単純な作業をするのが困難だ(モニターの大きさには限界がある--- 空間的に拡張できない---上に、モニターは二次元だ)。とりあえずこれは保留として手元に置いておく(モニターに表示したままにしておく)という写真が増えすぎるとモニター上が煩雑になって操作がすごくしにくくなる(それにパソコンの作動もすぐに鈍くなる)。いやそもそも、複数のフォルダーのウインドウを開いたままにして、さらに複数の写真を表示していると、それだけで画面は既にごちゃごぢゃだ。マウスの動きのちょっとしたズレでまったく違う操作がなされてしまったりする。写真の位置をちょっと移動するだけなのにいちいちマウスを使わなければならないのも面倒だ(情報の空間内への配置の自由度が低い)。だいたいぼくの撮る写真は構図がごちゃごちゃしているのでアイコンの表示だけでは何が写っているのかほとんど分からない。「確かさっき見たあの写真が…」と後になって思いついても、それを探すのがとても困難だ。ずっと同じ姿勢で、からだの動きのパターンも同じなので、すぐ肩がこるし目が疲れる。
●こういうことを延々とやっているうちに、自分が何を面白いと思って「これ」を撮ったのか、いやそもそも、なんで写真なんか撮っているのかというところから分からなくなってくる。ただの写真じゃん、これの何が面白れえんだよ、みたいな感じになる。しかし、何をしていても必ず途中に何度か「こういう段階」は訪れる。いったん「こういう段階」になって、そこからもう一度(あるいは何度でも)立て直すというプロセスには慣れている。こういうフィードバックによる強化を何度も繰り返すことで、作品をつくる人はおそらく、(たまたまそうであったに過ぎないかもしれない)「自分がつくった(つくってしまった)もの」によって逆に作られるという側面があると思う。
このような行為を通じて、自分の「やりたいこと」を再度発見する、というより、つくりだしている、のだろうと思う。
●写真はほとんどが散歩の範囲で撮られるので、同じ場所が、異なる時間や方向やフレームや状況(光、気象、人や車の配置)で何度も繰り返し撮られている。そしてその写真を撮ったのはぼくであるから、それぞれの写真にはそれを撮った時のその状況の記憶が張り付いている。そして写真は、ぼくが記憶している以上のことを記録しているから、写真を見ることで、自分が記憶している以上の記憶が喚起される。それを大量に見ることで、ある厚みと奥行きをもった、錯綜する記憶の塊が頭のなかにブワーッと広がる。たまたま引っ越して数か月という時期で「撮影対象の土地やそこでの時間」からやや距離が出来たこともあってか、引っ越す前の土地での時間と空間が模型化されたような高密度な感覚の塊が頭のなかで発生して、それに襲われるように圧倒される。
●10月9日のイベントの予約は既に定員に達したようです。
http://www.junkudo.co.jp/tenpo/evtalk.html#20121009_talk