●11月の後半に撮った写真。















●ぼくにとって写真は、凝視するもの、凝視するためのもの、あるいは、凝視するための距離と配置を確保するもの、であるのだろうか。
フレームや距離は、ほぼ一瞬で、カンで決めるけど(同じ場所で何度かやり直すとしても、その都度の決定の時間は短い)、そこで何を撮ったのか、何を撮ろうとしたのか、何が写っちゃっているのか、を吟味する(見る)のには、とても時間がかかる。だとすれば、凝視し吟味するための「時間」を確保するために「撮る」ということになるのだろうか。
例えば、撮ったものを後から、このような組み合わせにして、このような順番にならべるということも、自分が何を撮ったのかについての解釈の一つであり、吟味の結果の「一つ」ではあるだろう。
●何をどう撮るのか決めるのは、風景(空間=物の配置・分布と、光の配置・分布)と、その中での自分の位置(諸物、諸光たちとの諸距離、物としての自分と重力との関係、それらに対するぼくの関心)と、カメラの原理や構造や性能と、という三つの事柄の関係で、それらを総合したものがおそらくある種のカンとしてあらわれる。そして、撮られた写真を吟味することは、その時そこに成立していた関係を後から解釈し直すということになるのだろう。
何故、再解釈するのかと言えば、おそらく、その時そこに、何かしらの「よい関係」が成立していたからこそ、それが気になってシャッターを切ったはずで、その「よい関係」を改めて吟味することで自分のカンを検証し、フィードバック的に強化し、鍛えるためと、その「よい関係」の喜びを再び味わうためであろう。そしてそれを通じて、より精度や強度の高い、あるいは新たな「よい関係」の発見へと至るためであろう。