2023/12/07

⚫︎『建築する身体』(荒川修作+マドリン・ギンズ)を読み返している。ぼくは、アラカワ+ギンズを、グレアム・ハーマンやマルクス・ガブリエルやエリー・デューリング、あるいはマリリン・ストラザーンなどとの関係の中で考える。「関係の中で考える」というのは、重なるところもあり、ズレているところもあり、相容れないところもある、ということの「配置」のようなものから考えているということ(新しい実在論の流れを「相関主義批判」としてまとめるならば、そもそもアラカワ+ギンズとは相容れないではないかと言う人もいるかもしれないが、ことはそんなに単純ではないことは、彼らの芸術論を参照すれば明らかだと思う)。なぜ、そんな小難しいことを考えなければならないかと言えば、それは、「芸術」を、単なる社会批判や、社会反映、あるいは理念(正義)の図示ではないものとして考えるために必要だと思われるから。以下、『建築する身体』、「2.ランディング・サイト(降り立つ場)」から引用。

《なによりもすべての人が建築家になるようなしかたで、世界は現存しているのではないか。》

《世界になにも配置があたえられなければ、世界は形成されない。配置されつつある当のものはなにか。これについてはだれも答えようがない。配置されつつあるものは、ランディング(降り立つこと)のプロセスのなかにある。配置があたえられるさいには、サイト(場所)を認識するものが含まれている。場所の認識は、場所に降り立つある様式もしくは方法をつうじて、場所を迎え入れることである。そこには配置を獲得したものがある。それが世界である。制御しうる配置もあれば、ほとんど決定されずに生じる配置もある。ものごとがどのように配置されるかについての体系的近似は、可能であるにちがいない。身体は、場所をあたえられる。定点を指定し、選択し、決定し、規定し、考慮を開始するものは、あらゆる場所を組織化(共組織化)すると言ってよい。有機体―人間―環境は、場所からなり、それじたい場所となるであろう。有機体―人間、つまり場所をあたえられた身体は、多くの場所からなる一つの場所として生きる。》

《人間はどの瞬間にも、世界をランディング・サイトの特定の配置のなかで説明する。より正確に言えば、有機体―人間―環境は、この配置へと向かって解剖され、説明される。これはとても有用なことである。私たちが希望していることは、世界がこうした分布、解剖学的関係、配置に帰着されうることを証明することであり、そう考えることである。これが世界として進行していることであり、世界を総体としてとらえたとき、そこにはすべての居住者がふくまれる。》

《かりになにが配分されているかわからないのであれば、なんらかの秩序を持つ配分が現に進行しているという事実にとどまることにしよう。私たちがどのように世界に接続されているかを私たちはいまだ知ることができないのかもしれない。だが私たちが現にあることじたいは、紛れもなく知っているのである。私たちがまさにそのように知っているということを、正確にとらえよう。あるいは同じことだが、適切な不正確さでとらえよう。》

《人間の行為は、場所の属性に依存しており、またほとんどが場所化の系列をつうじて生じている。(…)環境を編成するなかで、人間は環境からの手掛かりを利用して、最善のしかたで、個々のものの大きさや規模を、世界や身体に割り当てる。環境の編成は止むことがなく、眠っているときでさえつづいている。》

⚫︎『建築する身体』と、それより前の『死なないために』とでは、用語や、その語のもつ位置付けにけっこう変化がある。大きな変化として後者ではキー概念だった「ブランク(空虚)」が、前者ではその位置がかなり後退しているということがある。ぼく自身としては、この「ブランク」という概念に大きな影響を受けているのだし、好きなのだが、この地位の後退をどのように考えるべきなのか。以下、『死なないために』より(上の引用と、ほぼ同じようなことをいっている箇所だが…)。

《《私》という領域、そしてそのほかすべての出来事の領域は、空虚を通して互いに浸透し合い、空虚の中で互いに影響し合う。そしてまた、この中間的な領域は、《外部》を変えるのとまさに同時に《私》を変えながら、《私》のなかへと、あるいはうえへと踏み込んでくるだろう。空虚が《私》を鋳直すように、私も空虚を手さぐりする。》

《瞬間的に、また、繰り返し、空虚は、我々の感覚のための宿、持続していると感じることができるようにするための宿として、働く。同じように、《私》もしくは場所の虚構が同時にかたちづくられるようになる。したがって、空虚は、行為というものに必須のものをかたちづくりながら、私のなかにくまなくまき散らされてといってよい。空虚に注目する場合は、以下のことが思い起こされねばならない。空虚は広く散乱しているということ、さまざまに異なった仕方で一挙に振る舞いうるということ、そしてこの、空虚に注目するという行為においても、それ自身、基本的な役割を果たしているということ。》