2023/06/08

⚫︎『からだの錯覚』(小鷹研理)、最後まで読んだ。昨日の日記でぼくは、小鷹さんの研究と、アラカワ/ギンズの仕事や、樫村晴香楳図かずお論などを結びつけて考えた。しかし、小鷹さんの新しさは、そのような芸術的・文化的な背景や文脈と全く無関係でも成り立つというところにある。研究から導かれた「からだの錯覚」を導き出す装置は、芸術・文化的なものへの関心や知識と関係なく、作用する人には作用するし、しない人にはしない。

(錯視のように、ほとんど全ての人に作用する、というわけでもない、というところがまた面白い。)

また、アラカワ/ギンズには強い共同性への指向があり、彼らはことあるごとに「共同的な探究」を口にする。しかし現実としては、(ギンズとの協働は可能だったとしても)アラカワが一種のカリスマであったことは否定できないだろうし、共同的な探究がうまくいっているようには思えない(とはいえ、アラカワに続く我々の身体に、養老天命反転地をはじめとする具体的に使用可能ないくつもの場所や装置を残してくれたという事実はある)。しかし小鷹さんは研究者であり大学の教員であるから、学生たちや他の研究者たち、そして装置への多くの参加者たちとの協働が可能であり、実際に「からだについての共同的な探究」を実践を可能にしている。

小鷹さんは、自分自身の身体の固有性に基づくであろう内発的な強い動機と探究の明らかな方向性を持ち、その意味では極めてアーティストに近い、というかアーティストであるが、その探究の手法はあくまで学術的な「研究」であるというキメラ性があり、この事実が小鷹さんが「やっていること」の新しさと際立った固有性と結びついている思う。

例えば、昨日の日記で触れたラマチャンドランの「共感覚者の存在を証明する実験」もそのような例の一つだと思われるが、芸術や文化ではない「研究」によってこそ生まれる貴重なものとは、主観的なものを客観的に扱うための媒介装置なのだと思う。このような媒介装置を通すことによって、「主観的なもの」を共同的に吟味し、探究することができるようになる。そしてさらに、その「共同的な探究の成果」は、再び「わたしの固有の生や身体」の編成へと働きかけ、その再編成を導く。「わたしに固有の問い」が媒介装置によって開かれ、共同的な吟味や探究を可能にし、そしてその結果が再び「わたしに固有の問い」へと帰ってくるというフィードバックループが可能になる。

閉じられたものが開かれ、開かれたものが再び閉じられる。この二つの方向はどちらも同じくらい重要であり、芸術も本来ならこういうことをやっているべきなのだが、スターシステム権威主義、資本主義がガッツリと三つ巴になった現在の「アート」という構えの中ではなかなか困難だ。とはいえ、面白い仕事をしている人のやっていることは、(力点やニュアンスは色々違っても)基本的にこういうことだとは思う。だが、そうだとしても、固有の文脈や階級、歴史的な蓄積をとりあえずは前提とせずに、「今、ここにあるからだ」にいきなり働きかけることができるというのはすごいことだと思う。

⚫︎昨日の日記の「追記」の部分で、「からだの錯覚」や「幽体離脱」が、(樫村晴香の言う)一神教的・神経症的な「わたし」でもなく、輪廻・多形倒錯的な「わたし」でもない、別の「わたし」の可能性を感じさせるということを書いた。ただ、小鷹さんの扱う「からだの錯覚」は、ボディジェクト的な感覚やナムネスへの注目、「きもちわるさ」の強調などから、どちらかというと楳図かずお的な、一神教的な資質を感じさせる。ここで「楳図かずお」的というときに想定している典型的な作品は「半魚人」で、そこには変身(とりかえしのつかない遊び)への強い恐怖と抵抗があるのと同時に、強い誘惑も働いている(そしてその先に、一種の「懐かしさ」が漂う)ような感覚で、その恐怖も誘惑も「このわたしの唯一性」が強くあるからこそ生じると考えられる。この本が、明晰夢的なメタバースに否定的なのは、それが輪廻・多形倒錯的なものであるからだろう。

そしてここで、一神教対輪廻という二項対立を超えるものとして「幽体離脱」があるのではないか。「幽体離脱的なわたし」を見出すことで初めて、一神教的でも輪廻的でもない「わたしのからだ」の再編成への端緒が開かれるのではないか。だからこそ、この本においても、小鷹さんの研究においても、「幽体離脱」は特権的な位置にあるのではないか。

(例えば、「あなたは今、しています A3」など。)

vimeo.com