2023/06/09

⚫︎『からだの錯覚』(小鷹研理)について、もうちょっと。「ボディジェクト指向」のシリーズは、小鷹さんがやっている他のことと多少毛色が違っていて、より「作品」性が高く、自分の身体を用いて「そこ」に参加しなくても、動画を観ているだけで、かなり強く効いてくる感じがある。他方、「スライムハンド」は、まだ自分で経験したことがないためか、動画で観ても、それがどのように、そしてどの程度に驚くべき感覚なのか、想像するのが難しい。

それは、「ボディジェクト指向」が強い視覚的インパクトを持つというだけでなく、身体所有感が削がれるナムネス的な経験は、例えば左右の腕が絡んだ状態で目覚めた時など、日常的な場面でも体験することがあるのに対して、皮膚が際限なく伸びるという感覚は、日常の中でも、あるいは夢の中であっても、同種の感じを経験することがあまりないということもある。だから、これがどのような「からだ」の変容につながり得るのかを想像しにくい。

⚫︎この本の白眉は、四章で、幽体離脱が「フルボディ錯覚」とは基本的に別の出来事であることかが説得力を持って語られるところだろう。つまり、フルボディ錯覚の延長線上で考えているのでは、幽体離脱には届かない、と。

ラバーハンド錯覚もフルボディ錯覚も、幽体離脱と同様に、脳のTPJ(側頭頭頂接合部)との深い関連があり、TJPは、概念やメタファーの処理、そして他者視点獲得という機能に関わっている。他者視点獲得とは《自分から現に見えている風景を、自分とは異なる場所から見るとどのように見えるかを想像するというもの》。それに関わり「心的回転」についての実験がある。例えば《左右いずれか一方の手に何らかの特徴のあるアバターを、いろんな角度から見て、その特徴が左右どちらの手にあるかなるべく早く答える》といったもの。左右の判定は自分の身体を起点に行うので、自己像を他者視点で見ている状態を想定して判断することになる。この場合、(1)下から、(2)目線の高さ、(3)上から、という三つの高さの視点を設定すると、(3)の上からの視点のものが反応速度も成績も最も高くなる。他者視点を想定する場合は、現実的な視点である「目線の高さ」よりも「上からの視点」の方がなぜか成績が良い。つまり俯瞰的な視点(視点変換装置)があらかじめ脳に内包されていると言える。これが幽体離脱の基盤となるだろう。

(TJPは複数の感覚を統合するエリアであり、その統合による産物の一つが「自己位置情報」である。)

フルボディ錯覚も幽体離脱も、どちらもTJPが強く関与するとはいえ、決定的に違う点がある。(1)フルボディ錯覚では、アバターは体験者の近傍(2メートル以内)にある必要があるが、幽体離脱ではもっと距離が遠く、「幽=視点」はしばしば部屋の外に出ようとすらする。(2)フルボディ錯覚では、アバターと体験者とは同じ向きを向いている必要がある(故に体験者はアバターの背中を見る)が、幽体離脱では二つの身体は対面している(ベッドに寝ている自分を見下ろしている)。(3)フルボディ錯覚では、身体の所有感が体験者(視点)からアバターへと移行するが、幽体離脱では所有感は「視点」の方にある(ベッドの上の「わたし」はナムネス的)。

ここで幽体離脱のもう一つの基盤である、仰向けの姿勢での重力反転(想定)のたやすさが挙げられる。立っている状態での前後の反転は極めて困難だが(この点については三章で語られている)、仰向けに寝ている状態では、「見上げている/見下ろしている」の感覚の反転(重力反転)は比較的容易に出来る。この事実が幽体離脱という出来事の基盤の一つとなる。《実際、健常者が体験する幽体離脱の73%、脳疾患に起因する幽体離脱の80%》が仰向けの状態で生じるという。

そして、小鷹さんは、幽体離脱の典型的な前触れとして金縛りがあることを挙げ、幽体離脱を次のように説明する。

《(…)金縛りは、一種の感覚遮断状態をつくります。(…)人間を含む生物の認知は、変化しない刺激を扱うことを思いの外苦手にしています。端的にいえば、変化しないものは存在しないかのように扱われるのです。》

《(…)そうした実存的(?)な困難に対抗するために残された道は、外的な刺激とは無関係に、内的な感覚を賦活させることです。実際、視界を長期間にわたって遮断されると、健康な人であっても、さまざまな幻覚が生み出されることがわかっています。》

《金縛りもまた、触覚や固有感覚といった身体の基礎的感覚が何ら変化を生み出せない状態で、世界と自己との消失をすんでのところで回避するように、別の「からだ」を立ち上げている、ということがいえるでしょう。》

故に幽体離脱は、危機的な状態、多くの場合に死に近い特別な状態で発生する「別のからだ」であり、それを危機的状況から切り離して「自在に扱える」ようにすることに対して小鷹さんは否定的だ。小鷹さんが研究する「からだの錯覚」は、常にヤバさや、きもちわるさを伴う、「とりかえしのつかない遊び」であるとしても、幽体離脱はその中でも、特にヤバくて危険なものだと思われる。しかし、だからこそそれは、我々の死生観へも楔を打ち込み得る、深い射程を持つもののように思われる。

⚫︎ぼくは、中学生、高校生くらいの頃は、頻繁に金縛りを経験した。それは、頻繁に経験しても少しも慣れることのない、その都度、強い恐怖を伴うものだった。しかし、幽体離脱にまで至った経験はない。金縛りも、成人する頃には、ごく稀に経験するくらいにまで減った。

⚫︎これは小鷹さんの仕事とはまた別のことなのだが、「口内空間」の捉え難さに、少し興味がある。小学生の時に風邪の熱でうなされて、口の中に無限に「綿」のような物質が詰め込まれるという感覚を持ったことがある。これは強い苦痛と恐怖を伴う感覚で、それとともに口内空間がどこまでも際限なく拡張して、拡張するほどに圧迫感と苦しさが増し、拡張するほどに自分自身の根拠が希薄になって、自分を掴めなくなっていくような恐怖を覚える感覚だった。口の中は、自分の内であると同時に、自分ではない「空」であり、空の部分がどこまでも拡張されることで、口内という空を内包し切れなくなった自分が、どこまでも掴みどころのないものになり、空と自分との主客が逆転してしまうのではないかという恐怖だったのではないかと、今の時点では言語化して考えている。

このような経験は小学生の頃には何度もあり、成長していくに従って消えていった。しかしこの名残りのような夢で、いくら吐いても吐いても、口の中に吐瀉物がどんどん生まれてくるというものがある。通常の嘔吐とは違って、胃から喉を通って口内に至るのではなく、口の中で、まるで唾液が湧いて出るようように、発泡スチロールの玉のような乾いたものが際限なく湧いて出てきて、口内を圧迫するように押し広げる。それは吐いても吐いても、もくもくと湧いてくる。

(そういえば、楳図かずおの『神の左手悪魔の右手』、および、明らかにそこから影響を受けている黒沢清の『LOFT』に、際限なく(身体に内包出来る量を明らかに超えて)泥を吐き続ける女というイメージが出てくる。)

口内空間の捉え難さは、背面空間の捉え難さとはまた別種のものがあり、独自の身体変形の受け皿となるように思われる。