2022/06/17

●インスタグラムで他人のアカウントを見るためには、自分でもアカウントを持っていないと見られない。ある人のアカウントを参照する必要があってアカウントをつくったのだが、せっかく作ったのだからちょっと触ってみようと思っただけだった。日記が非リニア的に、当てクジのように並んでいたら面白いのではないかと思いついて、やってみた。過去に書いた日記をコピペして、過去に撮った写真と組み合わせるだけだから、手軽にできる。

ランダム再生「偽日記」@インスタグラム

https://www.instagram.com/toshihirofuruya67/

日記を、順番に並んでいる時系列から切り離して、ランダムに生起させるというのは、「ことばと」に掲載された小説「騙されない者は彷徨う」でもやっていることで、時間の解体というか、「わたし」の非リニア化ということだ。順番に、とどまることなく整然と、ただ一方向に流れていく「現在」という時空の秩序をなんとかして、現在(いま・ここ)にとらわれない存在のありようを作れないのか、ということには常に関心がある。

やってみて案外おもしろかったのは、日記をランダムに配置するということだけでなく、それがまたランダムに選ばれた画像に結び付けられるというところだった。これは、インスタグラムという形式がなければ思いつかなかっただろう。

画像は、日記にアクセスするためのインデックスであるが、画像と日記の内容は(一部を除いて)無関係であるから、画像は同時に、日記の内容を隠す遮蔽幕でもある。画像と日記(の日付)とは一対一対応しているが、その結びつきには根拠がない。すでに自分でも、どの画像がどの日の日記へのアクセスなのか憶えていない。

インスタグラムのプロフィールのページにいくと、互いに関連のない正方形の画像が並んでいる。これを感じられるのは自分だけなのだが、どの写真も自分が撮ったものなのだから、それを撮った時のこと(場所や状況)を、なんとなく憶えていて、画像によって記憶がよみがえる。ただ、何年の何月何日、というところまではわからない。というか、場所や状況の記憶はけっこうはっきりあるが、いつ頃という時間(「現在」からの距離)の記憶は、まったく朧気だ。だから、プロフィールページの画面を眺めているだけで、様々な異なる場面の様々な記憶や感覚が、時間の秩序と関係なくランダムに生起してきて、これだけでぼくにはかなりおもしろい。

そして、そのどれかを選択すると、過去に書かれた日記があらわれる。日記もまた画像と同様で、そこに書かれた出来事のことは、けっこう生々しく思い出すことが出来るが、それがいつ頃の出来事であるのかを思い出すのは(日付を見ないと)難しい。二十年前の出来事も、五、六年前の出来事も、記憶の生々しさ、あるいは現在からの距離感は、あまり変わらない。

(ただし、二十年前の自分にはダメ出ししたいことがたくさんある、という意味で距離を感じるが…。)

つまり、プロフィールページには、過去の断片が、ランダムに、平面的に散らばっていて、そしてその下(奥)もまた、別の過去の断片(日記)へとランダムにつながっている。こういう状態がつくりだされてあることが、ぼくにはとてもおもしろい。だが、ぼくだけにおもしろいのかもしれない。

(ここで問題になるのは、ハッシュタグをどうするのか、ということだ。コンセプトの一貫性を考えるならば、使うべきではないと思う。ただ、ハッシュタグという、また別のランダムな通路をつくる、という意味でなら使ってもよいかもしれない。その時は、日記の内容とまったく関係ないわけではないが、ぴったりと合っているというわけでもないというハッシュタグをつけることで、もう一つのランダムな通路をつくることになる。)