●写真に関する(「写真」というメディアに関する、ではなく、「自分が写真を撮るという行為」に関する)原稿を書くために、この日記にアップした写真をここ二年分くらい遡って観ていたら、必ずしもそういう意図で撮っているわけではないのだけど、時々、それを撮った時の感じが強烈に思い出されてしまうショットがあって、それは何か特別な出来事があったということではなく、その写真を撮った時に、そこに立って、フレームを定めようとしたりしている、その時の何ということもない感覚で(その場所の感じであることも、その時の自分の感じであることもあった)、でもそれはやけに生々しく、つい二、三日前の出来事のように遠近感が狂って思い出されるのだけど、そんなことは、写真を撮ってそれを見返すということでもなければ、普通は一度過ぎ去ってしまえば思い出されないような些細なことで(思い出の場面の記念写真というわけではなく、ただ毎日ふらふら歩いていて気になったところを撮っているだけだし)、しかしそれでも、思い出してしまえば、記憶というのは何故かそれだけでとてつもなく貴重なことのように感じられて、ノスタルジーというのとはちょっと違う感じなのだが、自分が、今ここにいるということより、かつて「そこ」にいたということの方がリアルで重要であるというような、とても強い感覚と言うしかない、そういう感じがしてしまう。
というか、何故自分がいるのが「そこ」ではなくて「ここ」なのかということがよく分からなくなってくる、という感じ。本当に「ここ」にいるのかどうかが分からなくなる。
見た事をそのまま写真のように記憶できる人もいるということなのだが、ぼくにはそのような能力はなく、散歩するということも、むしろ見たことが次々と過ぎ去っていってそれを忘れてゆく(そして、たくさんのものを見たという高揚の残り香と、茫洋とした複合的イメージが残る)という感じの方が強いのだし、自分がどこでどんな写真を撮ったかということもだいたい忘れているのだけど、それでも、具体的な像としての写真を改めて見返すと、時間と空間とが秩序だってあるということの方が疑わしくなってしまうくらいの強い感覚が構成されるということが、とても不思議だ。その写真を撮っている時は、そんなことを後から思い出すことなどあるとは思っていない(未来の自分から見返されるとは思っていない)無防備な、どうということのない過去が、思い出すという形式のもとで構成されるととても強い感覚となり、そことここの区別さえ怪しくなるのだけど、しかしそれもまた、すぐ忘れて、そもそも思い出したことえも憶えていない感じになるのだろう。
風景というのは、どう考えても、「たんなる風景」などではないんだよなあと改めて強く感じたのだった。