2023/02/08

●インスタグラムにアップしている写真は、1989年くらいから現在まで、折りに触れて撮っている大量の写真の束の中から、その都度で適当に選んでいるものなのだが、今まであげた二百数十枚をダーッと流して見てみたら、死の前のいわゆる「走馬灯」ってこういう感じなのではないかと思った。

どの写真も、自分の人生の一大事みたいなものとは全く関係なく、散歩中とか、どこかへ出かける途中とか、用事の隙間の時間とか、部屋の中とかで撮ったものなのだけど、(全てではないが)ほとんどの写真で、それを撮った場所や、その時の感じ(そして、なぜ「その状態」を撮ろうと思ったのか)を憶えていて、写真を見るとその時の感覚がうっすらと再生される。これらの、とるに足らない写真たちによって再生されるとるに足らない「感覚」の集積こそが自分の「生」であり、とるに足らない写真の集積こそが、自分を何よりも的確に表現するものなのではないかと思えてくる。

(映像=動画ではなく、写真=静止画であることがかなり重要なのではないかとも思う。写真の中には時間が塊として圧縮されている感じがある。)

これらの写真にはほとんど人が映っていない。人が映っていたとしても、それは通りすがりの人でしかない。これは、ぼくはまず、人といる時に写真を撮ることがほとんどない(ぼくにとって、写真を撮るのは「一人でする」行為であり、関心が「人」に向いている時にするものではない)ということでもあるが、それと同時に、ぼくの「生」の時間は圧倒的に一人でいる時間によってできているということでもあるなあ、と。