●下の画像は、大学に入った頃に、自分で撮った写真のサービスタイズのプリントをコラージュ(というよりモンタージュ)して、日記のような感じでつくっていた作品の一部(日記だから、このような作品は大量にある)。常にカメラを持ち歩いてパシャパシャ撮っていたけど、当時はデジカメではないから、何カットでも取り放題というわけにはいかなくて、フィルム代、現像代、プリント代を合わせると36カット撮るだけで二千円以上かかった。
当時のぼくの意図としては「失敗」ということになるのだけど、下の作品に使われた写真には「89 10 1」という日付が刻印されている。間違ってカメラを日付刻印モードにして撮ってしまったのだ。おそらく、あ、しまった、と思いながら、これはこれでありかと思って(アクシデントも込みで作品だ、と)、これらのカットを使ったのだろう。別の画像を探している時にこの日付にひっかかって、おお、89年の10月か、と思って手が止まった。
(日記といっても、日ごとに記される日記ではなく、日常的に撮っている写真がある一定の量になったところで、その、「撮られた写真が一定量たまる」というリズムで刻まれるひとまとまりの時間が単位となっていて、その単位を日付---何月何日から何月何日までという具体性をもった日付の幅---としてではなく、もっと抽象的な、ある時間の幅によって生成された空間として示したかったから、当時、日付はいれないようにしていたのだと思う。)
1989年は、昭和の最後の年で、平成の最初の年で、大学に入った年だ。昭和64年は7日しかなかったから、10月1日は平成元年だ。「89 10 1」と刻印されたカットに映っているのは実家で、この建物はもう壊されていてない。「89 10 1」というのはたんなる数字だけど、たんなる数字である日付によって、時間の幅というか、時間の「遠さ」がぐわーっとくるのは不思議だ。特にこの「89 10 1」という数字に反応したのは、来年で平成も終わるというせいもあるのだろうし、意図的に残した日付ではなく、アクシデントとして残ってしまった日付だということもあると思う。