●『輪るピングドラム』で気になるのが、サネトシの持っているリンゴにアンプルのマークがついていること。苹果、晶馬、冠葉、多蕗の線が「事件」によってつながり、病院(医者)、陽毬、サネトシの線が何かしらの「薬品」でつながるとすれば、高倉家の両親が所属していたという「犯罪組織」を、宗教的なものというより製薬会社とか研究機関とか、そういうやばいクスリを取り扱う組織という感じで考えれば、二つの線はつながる。
「女神さまの松明の灰」っていうのは、(昨日書いたことと矛盾するけど)何かしらの教義や秘儀と考えるより、人が踏み込んではいけない領域にまで踏み込んだ(「生命」に関する)「クスリ(あるいは医療技術)」だと考えるとわかりやすい。人の命を奪う「事件」と、人に命を与える「クスリ」とのあやうい関係性。ピングドラムが無償で自らの命を与えるもの(蠍の火)であるのに対して、闇ウサギは(禁じられたものである)「クスリ」を用いて命を与える、とか。ももかの日記に書かれているのはその「クスリ」に関する何かなのではないか。冠葉が関係している「あやしい組織」もクスリ絡みではないか。晶馬が二度も睡眠薬で眠らされるのも、苹果がカエルから惚れ薬をつくるというエピソードがあるのも(惚れ薬は効きすぎた)、クスリつながりでなんとなく関連する。物語的な次元での大ざっぱな枠組みとしては、きっとそういう感じなのだろうと思った。
●だけど、もしその通りだとしても(違うかもしれないけど)、重要なのはそのような謎解きではないはず。
例えば苹果が、他の条件がすべて同じだとしても、一年早くか一年遅く生まれていたとしたら、つまり、95年3月20日からある程度距離がある地点で生まれたとしたならば、あんなに執拗に姉との同一化に執着することはなかっただろう。あるいは、「事件」の方が数か月でもズレていたとしたら…。そしてこの「もし」は両方とも苹果自身とはなにも関係がない。例えば、もし多蕗が遅刻しないで、多蕗とももかが一緒にいつもの時間の電車に乗っていたら事件に巻き込まれなかった、という時、勿論それは結果が出てからの事後的な悔いでしかないとしても(多蕗の「責任」ではないにしろ)、多蕗の行動が関わっているとは言うことが出来る。しかし苹果はそのような意味でも何の関係もない(だから、「ももか」の死によって刻まれたものは、多蕗と苹果とでは異なる)。
苹果において、「運命」が、自分以前にある「ある配置のなかの位置」の問題である(でしかない)、というのはそのような意味だ。自分以前にあった出来事によって「運命」を刻まれてしまった苹果は、だからこそ、自分以前に書かれたものである「ももかの日記」に強く拘束される(そこに手掛かりを見出す)しかなかった。そして、自分以前にあるものが自分に予め刻まれてしまっているということの強さを作品として示すために、その作品の成立以前に既にあり、多くの人に共有され、強く何かを刻んでしまった実在の事件(その日付)が、作品成立に必要だったのだと思われる。この作品は生まれる前から既にその事件(の日付)に拘束されている、という風に。
だからこの作品で問題になっている「事件」はおそらく、宗教の問題でもカルトやテロの問題でもなく、「日付」の問題なのだと思われる。少なくとも前半は、そのようなものとして構成されていたと思う。事件が、例えばオウムの教義、信仰、戦略等々の「帰結」として起こったとしても、この作品で問題となっているのはそのような何かの帰結として、結果として起こったものとしての「事件」ではなく、その事件が既に起こってしまったという「世界の配置」のなかで生まれ、そこを出発点とするほかなかった人についての話なのだと思う。
●とはいえ、この作品のもう一方の主題には「生存戦略」が、つまり、生命の交換(贈与、取引、競争あるいは収奪)というのもある。その点では、事件の日付だけでなくその「内容」も関係がないとは言えない重さをもつ(おそらくこちらの主題には、宮澤賢治が強く響いている)。人の命を奪う事件と、それを与えるクスリと、「蠍の火」との関係。多くの人が亡くなった事件との関連が明かされ、その後に、もし予想通りに「クスリ」の問題が前景化するとなると、今後、こちらの主題はより生々しい、というか、より重たく、よりえげつない展開になることが予想される。