●ちょっと昨日のつづき。ドイッチュがきっぱりとカオス理論を否定するのはそれが量子コンピュータの原理にかかわるからだ。
量子力学を説明する有名な実験――光子をスリットに向けて一個ずつ発射しても波のような干渉があらわれる――についてのドイッチュの見解は、その一個の光子が、無数にある「別の宇宙」で行われている「同じ実験」における光子たちと相互作用するからだ、というものだ。つまり、それぞれの宇宙の実験において「別の経路」を行く「同じ光子たち」が相互作用する、と。
量子論的多宇宙論では、実験の過程(経路)においてはそれぞれの宇宙が互いに異なっているとしても、結果においては一致するということがある(非ランダム干渉現象)。つまり、それぞれの宇宙における異なる過程同士が相互干渉することで、相互干渉していたすべての宇宙に共通する、ある特定の、一つの結果が導かれる、と。昨日ちらっと触れた、リサ・ランドールの本に書かれている素粒子のふるまいの予測(あり得るすべての可能性を足して平均をとる)というのはまさにこのことだと思われる。
このような出来事では、量子論的な計算によって(過程は予測できないとしても)「結果」が予測可能となる。しかしこの時、あり得るすべての可能性(歴史・過程・経路)について一つ一つをシラミツブシに計算した上で、さらにそれらすべての過程の間の相互作用を計算しなければならなくなる。要するに計算の量が膨大になり、予測不可能ではないものの、計算は処理困難に陥ってしまうという。
≪相互作用する二つの粒子それぞれに(たとえば)一〇〇〇個のルートの可能性が開かれているとしよう。そのとき、実験の中間段階では、この一対の粒子には一〇〇万個の異なる状態があるので、この粒子対が行っていることに関して、最大一〇〇万個に達する異なった宇宙がありうることになる。もし三つの粒子が相互作用していれば、異なる宇宙の数は一〇億になりうる。四つなら一兆だ。こうした場合に何が起こるかを予測するために計算しなければならない異なる歴史の数は、相互作用する粒子の数が増えるとともに、このように指数関数的に増大する。典型的な量子システムがどうふるまうかを計算する仕事が、はっきり処理困難であるのはこのためである。≫
●だが、このような困難を逆手にとったものこそが量子コンピューターの原理だというのだ。「逆転の発想」という言葉は陳腐だが、これは驚く。
≪しかしファインマンは、正しく、反対の結論を導き出した! 量子現象を提示する仕事の処理困難性を障害と見なす代わりに、それを好機と捉えたのである。干渉実験で起きることを算出するのにそれほど大量の計算が必要だとすれば、そうした実験を組み立てて、その結果を観測するという行為そのものが、複雑な計算を遂行することに他ならない。こうしてファインマンは、実際の量子力学対象について実験を行うことをコンピュータに許せば、量子的環境を効率的に提示することも、その結果として可能になるのではないかと推論した。コンピュータは仕事を進めながら、どの補助的な量子ハードウェアで測定するかを選び、測定結果を計算に取り込んでゆくだろう。≫
●その解析に、途方もない計算量が必要である出来事というのはつまり、その出来事そのものが途方もない量の計算を遂行しているということと同義なのだから、それを利用すればいい、と。そしてこれが成り立つためには、カオス理論が否定される必要が出てくる。
≪いくつかの粒子が相互作用するもっと複雑な実験では、こうした計算は私が説明したように、たちまち「処理困難」になる。にもかかわらず、この実験を行うだけでその結果をただちに得ることができるので、結局のところ、ほんとうに処理困難なのではない。ここで用語法についてもっと注意を払うようにしよう。既存のいかなるコンピュータを用いても実行しようとしても「処理困難」だが、量子力学的物体を専用コンピュータとして用いれば処理容易になる計算の仕事があるのは明らかである(量子現象がこのやり方で計算の実行に使えるという事実は、それがカオスに支配されていないことにかかっていることに注意してほしい。もし、計算の結果が初期条件に途方もなく敏感であれば、装置に適当な初期条件を設定することで「プログラム」するのは、とうていできそうにないむずかしい仕事になる)。≫
●つまり、初期条件に敏感過ぎると計算には利用できない。逆に、計算に利用できるのだとしたら、それは初期条件に敏感だというわけではない、と。
●ドイッチュの本のなかでは古典物理学を強く否定するニュアンスがある気がする。ちょっと前に、ノーベル賞の益川さんもヒッグス粒子に関するテレビ番組で「古典的な説明というのは要するにインチキなんですよ」と言っていた(短いインタビューだったので文脈ははっきりしないけど、確かにこう言ってはいた)。量子論とかをやっている学者からしたら古典物理学はもはやインチキでしかないという感じなのだろうか。しかしわれわれの社会的常識の範囲では、古典物理学(的な因果関係)こそが「科学的根拠」の下支えのようなものとして機能しているとすれば、このギャップはとても不思議だ。われわれにとってそれは依然として現実を構成し拘束する「法」だけど、科学者にとってそれは「見せかけ」の方便でしかないことになる。
≪半世紀にわたって計算の揺るがない基礎だった計算の古典理論は、古典物理学の残りの部分と同じように、近似的な図式として以外には、いまでは時代遅れである。これが計算理論だ、と呼べるものは、いまでは量子計算理論なのだ。(…)しかし、いまふりかえってみるとわかることだが、古典計算理論でさえ、古典物理学には完全にしたがってはおらず、量子論を強く予告するものを含んでいるのである。コンピュータが処理できるありうべき最少の情報量を呼ぶビットという言葉が、量子、つまり離散的な塊と同じものを意味しているのは偶然ではない。離散的な変数(連続的な範囲の値を取ることのできない、つまりとびとびの値しか取れない変数)は、古典物理学とは異質のものである。≫