●『あっぷあっぷ』(福永信・村瀬恭子)を改めて読む。すごく面白い。こういう本を、古本屋で高値がつく稀少本みたいなものにしてはいけないと思う。『星座から見た地球』の、ある意味とても平易な形式は、『あっぷあっぷ』の難解さのなかからこそ生まれたように思う。福永信が捉えようとする「現れ/逃れ去る」者たち(ヴァーチャルな存在者)の感触に触れるには、平易な『星座から見た地球』よりも、かえって複雑な『あっぷあっぷ』の方が分かり易いのかも、とも思う。
『あっぷあっぷ』ではフレームの重層構造によって作品そのものが時間の外に押し出されるが、『星座…』では、フレームの並立構造がフレーム間を制御する統一的な時間を消去し、しかしそれによって個々の「読む者」がそこに時間を付与することを(読む者が時間と「なること」を)要請される。
「1+1/2-1」と、「2+1/3−1」という二つのユニットが、ズレを含みつつ垂直に重なり循環する構造によって(そのユニット内には存在しないもう一つの「−1」を出現させるように)動いて行く『あっぷあっぷ』に比べて、ひたすら単純に、1+1+1+1(1×4)のユニットが水平的に増殖してゆくようにみえる『星座…』が、しかし決して単調にならないのは、水平に並べられているようにみえる「1」たちに、構造として確定されるには至らないが、その手前で留まりつつも、垂直方向への跳躍(あるいは陥没)する「気配」がちりばめられているからであろう(「+1」は同時に「−1」でもあるという振幅運動)。たんに「星座」と呼ばれるような、平面的な図像が結ばれては解かれるという運動があるだけでなく、そこには、深さや垂直性の「予感」がその都度(形象の生成と消滅の気配と共に)生起する(たんに「星座」があるだけでなく、そこから遠くの地球が「見られる」というその距離−深さ)。たんに、形象が生まれては消えてゆくというのではなく、その誕生と消滅(と、さらにその双方への抵抗、躊躇)そのものを生じさせる根底的な「力」の感触が(垂直性の、あくまで「予感」として)掴まれている。それは、地球から星座が(また、星座から地球が)分離される、その時、その場で働いている力の感触であり、その分離の記憶−感情の繰り返しの回帰であるように思われる。
そして、その感触を生んでいるのは、主に、「語り」における語り手と語られる対象(ABCD)との関係−距離の特殊な有り様であるように思われる。そして、この特異な、語り手と対象との関係の有り様こそが、『あっぷあっぷ』では、作品そのものの複雑な構造として掴まれているようだ。さらに言えば、『星座…』が書かれるためには、その前提として「私の洛外図」と「人情の帯」とが書かれることが、形式的に(語り手と対象の距離の操作のために)必須であったように思われる。