●『パノララ』(柴崎友香)。たぶんこの小説は予備知識なしで読んだ方がいいと思うので、まだ読んでいなくて読むつもりの人は、以下の文章を読まないほうがいいかもしれません。
●二人のカリスマ(みすず、吉永)と二人の母親(みすず、真紀子の母)の話というべきか、あるいは、二つの家族的関係(木村家、吉永たちのグループ)の重なりからみえてくる三つめの家族(田中家)の話というべきか、そのような構図から浮かび上がる人間関係の閉塞と囚われ(と、そこからの脱出)の話というべきか。『星のしるし』や『ドリーマーズ』の流れを汲む、柴崎的スピリチュアルの系譜の小説が、このような形をとることに驚くとともに、納得もさせられた。
前半を読んでいる時はこんなにヘヴィーでシリアスな話になるとは思わず、描写の作家から語りの作家へと変貌しつつある作家の語りの自在さを楽しむ感じで読んでいたのだけど、主人公の母親の存在が顕在化されるあたりから空気が変わり、それと同時に今まで重ねられてきた細部の関連性がみえはじめてきて(これもあれもそれもみんな伏線だったのか、的な)、最後の方にはびっくりするような仕掛けがあって、しかしそれは驚かせるための仕掛けというより、この小説のあり様と深く響きあうというか、必然的なものとして導入されている。
あと、人物への踏み込みの深さにも驚いた。おそらく、今までの小説より一歩、奥へとぐっと踏み込んでいる感じ(それが、意地悪な批評性、みたいになっていないところが上品だと思う)。
●吉永たちの映画製作グループが最初に出てきた時は、ちょっとした風俗的なエピソードだと思い、まさかこの部分(この「微妙な人たち」の話)がその後になって大きく膨らむとは思わなかった。その後も、このような微妙な人たちの集団に対する記述の絶妙な距離感が、例えば『星のしるし』などのスピリチュアルへの絶妙な距離感と響きあっているように感じられ、肯定するわけでも否定するわけでもなく、好奇心と冷静さによって記述されるというバランスでなされているので、半ば身を預けつつ信用しきらない感じで突っ切るのかと思っていたのだけど、とても冷静な分析的過程を経て、最後には否定的なところにまで踏み込んでいたことにも驚いた。
このようなカリスマと信者たちみたいな関係を否定的に、あるいは戯画的に描くのはありふれていると思うのだけど、最後には否定的に描かれるとはいえ、簡単には否定できない肯定的な側面を十分にひろいつつも、しかしそれでも最終的には、やはりこれではまずいのではないかという結論が導かれる。
●主人公には、職場、木村家、吉永サークルという三つの場がある。そしてそれらは、実家の母や、過干渉する男性との、蟻地獄的な、巻き込まれて抜けられないような関係性からの逃避、脱出として機能している(ということが、かなり後の方になって分かる)。男性との関係は、主人公の人物像をかたちづくる一つのエピソードだと言えるとしても、母の存在は、この小説全体を裏から支えると言えるような大きな力をもつ。表側は、みすずという「別の母(をもつ家族)」の話だが、その裏には、常に主人公の母の存在がある(ということが後になって分かる)。
別の母をもつ別の娘たち(文、絵波)、別の母をもつ別の父(将春)、そして別の母自身(みすず)の物語が(様々な部屋に繋がる、倉庫のような部屋に住むイチローは、人物というよりこの小説を成立させる装置のような存在だろう)、主人公にとって、母からの逃避先であり、同時に、母と向かい合うことを可能にする媒介にもなる。
(職場の、かよ子とその息子もまた、「別の母子」であろう。というか、かよ子は、主人公自身も「母」となり得る、という可能性を示す存在かもしれない。)
みすずのような人物は、主人公にとって、母とは対極にあり、自分が生まれながらに囚われていて、逃げられない関係性とは異質な、その外にいるよう存在であろう。その意味で、主人公にとってのみすずは、映画青年たちにとっての吉永のような存在ではある。主人公には、まずそのような存在が必要だ。しかし、そのような「別の母」をもつ「別の娘」たち(都心近くに実家をもち、自由な父母をもつ)にも、自分とは異なる形ではあっても、生まれながらに囚われて逃げられない関係があり事情があることが徐々に語られる。みすず自身も(吉永がそうであるように)、当然だけどふつうの人であり、そのカリスマ性を他人から投影されたものである。つまり、田中家も木村家もある意味で同型であり、みすずも吉永も同型であるとも言える。しかしそうだとしても(それを認識し、受け入れた上で)、主人公には(吉永的サークルではなく)木村家とみすずが、そして実家ではなく東京が、ポジティブなものとして捉えられる。つまり、一方に対してもう一方がはっきりと「選択」される。
●「別の娘」たちのなかで、姉の文は、木村家内で主人公に近い位置にいる鏡像的な存在であり(地方から東京に出る主人公に対し、文は東京から地方へ旅立つ)、吉永サークルに惹かれる(それを必要とする)妹の絵波は、みすず一家(木村家)に惹かれる(必要とする)主人公の対称形だと言える。あるいは、木村家の全裸の――何も隠さない――父は、何を考えているかわからない――すべてが隠された――田中家の父と対照的であると言える。みすず自身もまた、「別の母」として、主人公の母とはまったく違う形ではあっても、「別の娘」たちに対する重たい抑圧として機能している。
(例えば、あまりにも強く性的な抑圧をかける主人公の母に対し、みすずは奔放であるが、かえってそのことが文に対しては抑圧として機能してしまう、など)
木村家と田中家は、別、であり、逆、でもあるが、同型でもあり、木村家の物語は田中家の物語を逆から語っていて、別の娘たちの物語は、主人公の物語を逆から語ってもいる。それは、決して重なり合わないが、どこかで響き合っていて、だから、主人公にイチローの能力が転移し、主人公と「別の娘」たちの間で相互作用(変化)が起こるのだと思う。
(木村家の子供たちは、度々失踪するみすずについて、みすずには「テレビのなかの別の家」があると思っていたという記述があるが、木村家と田中家とは、互いに対して、「テレビのなかの別の家」に当たる位置にあるのかもしれない。)
だとすればこの小説は、二人のカリスマと二人の母親の話というよりも、「娘」と「別の娘」たちの話だと言うべきかもしれない。