●DVD、二本。『金造怪談』。いまひとつ。ごく普通の怪談で、話が妙に中途半端だったり、オチが決まってなかったり、つまり語りとして完成されていないところに不思議な味わいがあるととはいえ、話として面白いというほどのことはない。「夢で助けてくれるおじさんの話」とか「口が勝手に「いるよ」と言ってしまう話」とか、もっと面白い話があるはずなのに、なんでそういう話をしないのだろうか。話の選択、構成が下手すぎる。スタッフが悪いのかもしれない。
『けいおん!』(1、2話)。誰に頼まれたわけでもないのに、こんなものをわざわざチェックしている自分がバカに思えるようなものだった。何やってんだ、自分、と思いながら観た。作品というものが、なにかしらの形で(どのような屈折した、微妙な、なけなしのものであれ)「良いもの(古い言葉で言えば真・善・美)」への指向という超越性を孕んでいるとすれば(状況に対して超出的であろうとすれば、必然的に第三者-大他者への指向性を持たざるを得ないだろう)、京都アニメーションのつくるものは、それを根本的に欠いているように思う(「音楽」という超越的な価値が先にあって、その「カッコイイ音楽」を自分たちもやりたいというのではなく、かっこつけてモテたいというのでさえなくて、あくまで「みんなでやる活動」としてたまたまバンド活動が選ばれただけで、そこでのまったりした関係性こそが重要なものとなっている、なにしろ最初に演奏される曲が「翼をください」で、普通に考えて「軽楽」とはもっとも遠いような人たちがバンドをやる話で、「カッコイイ」という超越性への指向はここにははじめからないのだ)。
作品というより、「こういう趣味」の人によって消費されるコンテンツとして最適であることだけが目指されている。だから、「こういう趣味」を共有しないぼくには入り込む余地はない。悪口さえ言えない。(風景をはじめ、日常的なディテールがやけに詳細でリアルなのに、登場人物が全て、記号的で、平板で、お約束的で、幼稚な、典型的アニメキャラのパターンで、ひたすら平板で単純で単調な、想定内の展開が波風なくつづいてゆく。おそらく、髪の毛の揺れの表現なども含めた、背景のディテールが詳細であることだけが、この世界を支えている。日常生活がとてもハードで、内面的にも不安定で、かつ希望もない状況にある場合、こういうまったりとした刺激のない、ひたすら安定した持続だけによって成り立つコンテンツを消費することで「癒し」を得たいという気持ちに強い切実さがあることは、ぼくにも分からないではないのだが。というか、それはぼくにもとても「近しい」感情なのだが。とはいえ、これはあまりに極端に過ぎるというか「それだけ」であり過ぎるように思う。あと、これって結局『よつばと!』なんだと思った。『よつばと!』よりもさらに世界が単純で単調になって、「萌え」に特化されているいる分、背景やディテールがより詳細であることが要請されている、というのか。こういうのが好きな人、こういうものを求める人にとっては、『よつばと!』程度の動き-刺激でさえ、受け止め切れない、邪魔だ、辛い、ということなのかもしれない。)
悪口さえ言えない、とか書いたわりにはいろいろ書いているのだが、第二話で、ギターを買うためにバンドのみんなでバイトするというエピソードがあった後に、実はメンバーの一人が楽器店の系列会社の社長の娘で、簡単にギターを安く買えてしまうという展開には、「えーっ」と驚いた。それって、そこまでの展開(ささやかなものであれ、努力とか友情とか成長とかがあった)をすべて台無しにしちゃってるわけで、でも、この作品としてはそれで全然OKなのか、と。それらはすべてただその場をもたせるためだけのエピソード(ネタ)だったのか、と。基本的に、その場その場でのノリがすべてで、時間の蓄積とか物事の進み行きの過程とか、そういうのがどうでもいい話なのか、と。