●昨日、『けいおん!』について書きながら思ったのだが、「カッコイイ」ということが超越性(というより、超越論性)への指向を起動するとしたら、「かわいい(萌え)」というのもまた、超越性への指向を起動させる動力にはならないのだろうか。他人を見て(あるいは、他人のするなにかしらの行為を見て)「カッコイイ」と感じることはそのまま、自分自身に対して(その人のように)「かっこよくあれ」という命令として作用する。それは、ごく幼稚な想像的な同一化でしかないかもしれないのだが、しかし精神分析的な意味での鏡像が、同一性(それはわたしだ)と同時に疎外(それはわたしそのものではなく、わたしの外的イメージ-鏡像でしかない)を同時に含むように、想像的な同一化は、その想像的イメージとの親しさ(そのカッコイイものこそがわたしの拠り所だ)と同時に、その同一化の対象は「わたし」そのものではないのだから、その対象のように「ならねばならない」という「命令」、そのようなものに「なりたい」という「あこがれ」の感情を生む。そこには自然に自己の相対化(精神分析的には「去勢」)が生じるだろう。つまり、「カッコイイ」という想像的な同一化は、その内部に既に象徴的な「法」(分離)を必然的に含むことになろう。そして、「カッコイイ」という価値観は、多くの場合、その場で支配的な価値観から外れたものに対して生じるという傾向があるから(かっこよくありたいという思いやこだわりは、しばしば、モテたいという功利性と齟齬をきたす)、ある状況に対して超出的(超越論的)な指向性を孕むこととなるだろう。カッコイイ人、カッコイイ行為、カッコイイ作品、カッコイイものは、それに触れることそのものがよろこびであるのと同時に、それに触れる人に、「で、お前はどうなんだ」という問いを常に投げ返してくる。それは超越論的(超出的)なものに成り得る。
では「かわいい」はどうなのか。だが「かわいい」という感情は、カッコイイよりもずっと複雑で微妙であり、簡単には判断できない。女性が女性に対してもつ「かわいい」という感覚は、もしかしたらカッコイイと同様の効果をもつものなのかもしれない。しかし、カッコイイとかわいいとは明確に異なる感覚なので、それを簡単に同一視することは出来ない。この点に関しては、ぼくにはいまひとつよく分からないとしか言えない(『けいおん!』の不可解なところは、クレジットをみると、主に女性のスタッフによってつくられているところで、この点に関してもぼくには歯が立たない)。
けいおん!』という、ひたすら単調で刺激を欠いた作品を、男性の観客が観続ける理由があるとしたら、作品と観客とを結びつける接点は、女性キャラクターへの愛着-執着、「かわいい(萌え)」という感情しかないように思われる。萌えというのはおそらく、明らかに性的な感情でありながら、それが強く、激しく亢進することがないようにあらかじめ調整されたものであるように感じられる。「萌えーっ!」というのは確かに感情の昂揚ではあるのだが、それは性的に解決される経路をもたない(ぶっちゃけて言えば、射精という終点をもたない)。激しく亢進もしなければ、解決されることもなく、ある一定の閾値のなかで高まったり弱まったりする感情の変動と、その持続。それは、欲望を程よく満足させながらも、ある安定した、その内部でやすらうことの出来る環境の持続を可能にする。そのような環境を希求する感情は、ぼく自身にも強くあると思うし、その切実さは理解できないことはない(ひたすら、まったりしたい)。それを否定しようとも思わない(否定できるはずがない)。ただ、男性の観客がそのような視線で女性キャラクターを「消費する」時、そこには自分に返ってくるもの(かっこよくあれ、という命令-法、で、お前はどうなんだ、という問い、のようなもの)はないように思う。わたしが何かを眼差すという視線が、わたしに向かってはね返ってくるもの(第三者の視線)を同時に孕むという装置が作動しないと、その対象は「わたしの欲望」の範囲内に閉じこめられたままなのではないか。そこに超越性は生まれにくいように思われる。
ただぼくは、カッコイイを単純に肯定しているわけでもない。ある種の「カッコイイ」は、すんなりとマッチョな価値観へと繋がりやすいという傾向をもってしまう。男の子の好きな物、女、クルマ、スポーツ、政治(かつての「週刊プレイボーイ」!)、のもつ超越性は、マッチョな第三者-大他者を招き寄せる。だがそれは、カッコイイの超越性であるよりむしろ、「モテたい」の超越性なのかもしれないが。カッコイイとモテたいとの、微妙なベクトルの違い。その関係の複雑さ。
山城新伍が亡くなった。かつて、テレビには確実に山城新伍の時代があった。そして、ぼくは山城新伍が嫌いだった(今のぼくが、島田紳介を嫌いなのと同じような感じで)。しかし、テレビにおける山城新伍の時代は随分前からノスタルジーの対象でしかなく、だから、ぼくの山城新伍への嫌悪の感情そのものも、今ではノスタルジーの対象でしかない。かつて、「大人の観るようなバラエティー番組」は大抵、山城新伍がMCをしていた(という印象)。それは、名高達郎と多岐川裕美が美男と美女の代表だったような時代だ。そして、背伸びするように「大人のバラエティー」を観るようになる年齢だったぼくは、背伸びをするたびに山城新伍に突き当たり、嫌な感じを噛み締めた。山城新伍を観る度に「このおっさん、嫌だなあ」と感じるということは、ぼくの思春期の時間そのものと切り離せない形で、今も記憶のなかでしっかり存在している。ネガティブな意味ではあっても、山城新伍はぼくの思春期の時間の一部に組み込まれてあるのだ。何年か前、痴呆で徘徊しているという噂を否定するためにカメラの前で話した山城新伍は、かつてのあの、口先だけの脂ぎった嫌らしいおっさんとは思えないくらい、だとだとしく喋っていた。それでも無理をして、かつての自分のイメージを誇示するかのような内容のことを喋ったりもしていた。「スタイル」ということの重たい意味を感じた。山城新伍と言えば誰でも思い浮かべるであろう一つのスタイルというものがある。「スタイル」は一人の人間よりも大きいものなのか。そのイメージは、ぼくにとって、とても強いものとして刻まれた。かつて山城新伍を嫌いだったという事実は決して消えないが、そのイメージは、そんなことよりもずっと重たいものを含んでいるように思われた。