●『シャッターアイランド』(マーティン・スコセッシ)をDVDで観た。『インセプション』にしろこの映画にしろ、要するに新本格なんだよなあと思った。とはいえ、ぼくは新本格のことはあまり知らないし、ある程度は読んでいるという作家は法月綸太郎くらいだ(といっても全作品を読んでいるわけではない)。しかし、『シャッターアイランド』には、感覚として、『密閉教室』や(数日前に読んだ)『夏と冬の奏鳴曲』ときわめて近いものがある。そして、新本格のルーツは、あきらかに八十年代はじめ頃の柄谷行人の仕事(「内省と遡行」、「隠喩としての建築」「形式化の諸問題」など)であろう(法月綸太郎にはたしか柄谷行人を引用したメタミステリ論があったと思うし、『夏と冬の奏鳴曲』にもあきらかに柄谷行人を想起させる細部がある)。つまり、八十年代初頭の柄谷行人の先鋭的な論文で掴まれていた「直感」が、九十年代初頭の先鋭的なミステリに転生して、現在では、通俗的なハリウッド映画にもみられるようなった、と。
そこで、「形式化の諸問題」を十何年ぶりかで読み返してみたのだが、とても面白かった。ここでは、形式主義が決して「メタ」を指向するものではなく、逆に、形式主義の徹底によってこそ、それまで隠蔽されていた「メタレヴェルはありえない」という事実が露呈されてしまった、ということが書かれている。たとえば、「現象/本質」という二項対立は、実は、あらかじめ「本質」の優位というメタレヴェルが設定された上でなされる対立であって、実は、{(現象/本質)本質}というものであった。あるい、それを逆転させて、本質に対する現象の優位を主張する{(本質/現象)現象}というものが、それへの批判(逆転)として成立する。しかし、形式主義は、その徹底によって、前提としての(潜在的に前提とされていた)メタレヴェルを不可能にし(根拠を剥奪し)、いわば{(現象/本質)本質/現象}となって(柄谷行人はこういう書き方はしていないけど)、外からの根拠を失ってループになり、メタレヴェルとオブジェクトレベルとが永遠に反転しつづけるしかなくなる。つまり、論理階梯の混同は避けられない。メタレヴェルがあり得ないということは、「これが現実(真実)である」という確定を保証するものはどこにもない、どうやっても得られない、ということだ(『シャッターアイランド』は最終的に「現実」の次元が確定されるけど、それはエンターテイメントとして作品を収束させるための方便であろう)。ここで、現象と本質(あるいは幻想と現実)との区別は、最終的には弁証法的に止揚されるべき矛盾としてではなく、原理的には決して解消(決定)不可能なパラドックスとしてあらわれる、と。
柄谷行人はこの後、二項の決定不可能性から、複数の項の同時並立(可能世界)と固有名という問題に移行するのだが、それはたとえば『インセプション』の前半と後半とに対応するかもしれない。とはいえ、『インセプション』における世界の多層化は、夢と現実という二項が温存された上でのことなので、最終的にはオチはふたたび二項の決定不能性というところに落ち着く。対して『シャッターアイランド』は最初から徹底して二項(幻想/現実)の決定不能性のみを追求することによって、結果としてより不安定な感触を実現し得ているように思われた。
でも、『シャッターアイランド』や『インセプション』よりも『夏と冬の奏鳴曲』の方がずっと面白いと思う。この作品では和音島の人たちによる「キュビズム理論からパピエ・コレへ」という展開が、いわば形式化の諸問題とそれの(原理的にありえない)乗り越え(その努力と挫折)に対応するのだと思うけど(ただ、実際のパピエ・コレはこの小説で言及されているようなこととはまったく違うと思うけど)、もう一方の、主人公とヒロインによる、二つの対称的な「二重性(分身性)」が、形式化の前提それ自体を瓦解させてしまうというところにより大きな面白さがあると思う。これを簡単に自同律の不成立と言ってしまうのは単調すぎて、もっと掴みがたくて不気味なもので、ここには(主人公とヒロインとのカップル性もふくめ)「世界の根底的な二人称性」の感触がある。この部分こそが(気持ち悪くて)面白い。
「形式化の諸問題」が収録されている『隠喩としての建築』という本は、81年1月から82年8月までに書かれたすべてのエッセイが収録されているのだが(岩波版ではなく講談社版)、この時期の柄谷行人が書いている唯一の(小説の)作家論が、小島信夫論なのだ(「中上健次への手紙」というエッセイがあるがこれは文字通り「手紙」である)。この小島信夫論は決して質の高いものとは言えず、「隠喩としての建築」や「形式化の諸問題」で自らが展開していることを、わりと単調に小島信夫の作品に当てはめているだけなのだが、そうとは言っても、同時代の日本の現代小説にほとんど関心がないかのような著者が、少なくとも小島信夫のことは「気にしていた」という事実はとても大きいように思われる。
で、何が言いたいかというと、八十年代初頭の柄谷行人が提起し、掴んでいた「直感」の「可能性の中心」を示し、展開しているのは、その直径ともいえる(決定不可能性において語る)新本格や『シャッターアイランド』のような作品ではなく、実は(決定不可能性という概念すらぐずぐずになってしまう)小島信夫の作品なのではないか、ということだ。
さらに、『批評とポスト・モダン』という本には、83年に書かれた、柄谷行人が書いたとは思えない「懐疑的に語られた「夢」」というすばらしいエッセイ(「柄谷行人が書いたとは思えない」かつ、「すばらしい」という意味)が収録されている。実際、このエッセイはこの本のなかで「浮いて」いて、他のエッセイが皆、このエッセイを批判しているかのようにすら感じられる。このエッセイで、フーコーの次のような部分が引用されているのは、柄谷行人の読者にはとても意外なことだと言えると思う。ここでの「幽霊」や、フーコーがいっている「反-言説」としての文学というのは、新本格よりも小島信夫こそがふさわしいのではないか。
≪しかし、少々あらっぽいいい方をすれば、「批評」は、いわば幽霊を本気に受けとめるところからはじまったのだ。ミシェル・フーコーはいっている。「……ところで、十九世紀全般にわたって、さらに今日のわれわれにいたるまで---すなわち、ヘルダーリンからマラルメ、アントナン・アルトーにいたるまで---文学がその自律性において実在し、他のいっさいの言語(ランガージュ)からふかい断絶をもって切り離されているのは、それが一種の『反-言説』を形成し、そうすることによって、言語の表象機能あるいは記号をなす(シニフィエ)機能から、十六世紀以来忘れられていたあの生のままの存在(エートル)へとさかのぼったからにほかならない」(『言葉と物』渡辺一民佐々木翔訳)≫