国分寺switch point で井上実・展(http://www.switch-point.com/2009/0903inoue.html)。井上くんのこの展示の作品については、この日記の去年の12月27日のところにも書いたし、同じ文章が switch pointのサイトにも掲載されている。井上くんの絵は面白いです。それにしても、最近、飲み会に参加すると、自分が一番年上ということがけっこうあって、それはなんとも言えない、「うーん」という気分なのだった。
●ずっと昔にダビングした、古くてとても画質の悪い(自分で持っている)ビデオを引っ張り出してきて、『パリのランデブー』(ロメール)を観た。すごい面白かった。三つのどのエピソードも、ほとんど小話というような単純な幾何学的図式(例えば、一話と三話では、暖色の服を着る黒髪の女性が、寒色の服を着る金髪の女性に対して優位にあり、それらを繋ぐ二話では、黒い服を着る金髪の女性一人が登場する、そしてすべての話において、女性が男性に対して優位に立つ、というか男性を振る、等)と、いかにもな感じの(フランス的な?)わざとらしいオチで出来ているのだが、それは作品をつくる口実のようなものでしかなく、撮影するという行為のなか掴まれたものによってこそ出来ている映画だと思う。
ぼくが圧倒的に好きなのは三つ目の「母と子 1907年」で、これは、男性の画家と、彼が美術館の前で見かけて声をかけた女性とのやりとりだけで、ほぼ全編できていると言って良い。ここでは、カットがかわる度に、カメラが動く度に、言葉が一言発せられる度に、一つ一つの仕草や人物の移動の度に、この二人の人物の関係の距離が、その都度近付いたり離れたりする、その微妙な距離の伸縮だけによって成立している。男は女につきまとうが、女は、自分は今新婚旅行中であり、これから夫と落ち合ってすぐジュネーブに立つという、男はあきらめて引きかけるが、今度は女の方から男のアトリエを見せてほしいと言う。一歩近付いては一歩引く、一進一退を繰り返しつつ、ちょっとずつ距離が近付くようにも感じられるのだが、男がぐっと近寄ろうとすると女はさっと引き、男が、ああ、もう無理、と思って引くと、女がふわっと近寄ってくる。このような差し引きのなかで、男の空回りする欲望と軽い苛立、滑稽さがカメラに拾われ、女の、自分の性的魅力を知った上で身をさらしつつ身を隠す、半ばからかうような自在さの感触とともに、官能的な表情が、抑制された、あくまで軽い調子でひきだされる。この二人の距離の抜き差しは、けっして心理的な次元であらわれるのではなく、二人の人物の動きや表情、カメラの位置の変化によって具体的な「目に見える表情」として捉えられ、あらわれている。
このような、世界の表情を繊細に拾うことで生まれる、緊迫感としてのエロティックな表情は、『我が至上の愛アストレとセラドン』では、ほとんどみられない。『我が至上の愛』では、俳優の表情を丁寧に拾うというような粘っこさは既になく、そのかわり垂れ流しのような抑えの利かないエロの感触がある。とはいえ、『パリのランデブー』ですら1995年の映画で、1920年生まれのロメールはこの時既に75歳なのだった。
我が至上の愛』はピエール・ズッカに捧げられていて、ズッカといえばクロソウスキーだけど(映画版『ロベルトは今夜』を一緒につくっている)、この映画も、時代物のコスチュームプレイとして、テキストの幾何学性が強調され、出来事の起こる場が現実から掛け離れた象徴的な空間に移行しているという点でクロソウスキーと近いものが確かにある。とはいえ。クロソウスキーにおいては、イメージ(想像界)かほぼ完璧にテキスト(象徴界)によって押さえ込まれていて、イメージの次元では、新たなもの、現実的なもの(ぶっちゃけ現実界)が到来する余地がない。だからこそ、そこでは無限に反復されるかのようなシミュラークルの戯れが可能となる。それはほとんど冥界のような場所だ。シミュラークルの無限の戯れが、ニーチェ的な永遠回帰に対する(あるいは、狂気へと陥ることに対する)防衛となっている、というのか。あの貧相な鉛筆画にみられるように、イメージの場からは現実的なものが干上がっている。イメージの場にある「エロ」は、既に毒-悪を抜かれた、「エロ」のシミュラークルであり(そこにある「悪」は、悪のシミュラークルであり)、それはテキスト(象徴)によってあらかじめ配置されているもので、リアルなものは、あくまで潜在的なものとしての身体-部分欲動の場にのみある。『我が至上の愛』も、途中まではそんな感じですすむのだが、それはクロソウスキーほどには徹底されていない。ロメールは、クロソウスキーにもなれず、ルノアールにもなれず、中途半端、という感じだ。しかしそれが、最後の方になってがらっとかわる。ロメールにとってはやはり、現実的なものの「しるし」は、イメージの方から(あるいは、イメージとテキストの隙間から)、「エロ」という形でやってくる。映画の自然主義とは、イメージの場に、現実的なものの「しるし」が宿ることへの信によって成り立っている。
●もうすぐフランケンズの、『遊び半分』以来の、久々の本公演『44マクベス』がはじまるのだが、これは絶対に行く。フランケンズが「マクベス」やるんだから観ないですませるわけにはいかない。S席、当日券四千円だけど、何とかする。『友達』(確か、当日券五千円)の時には、直前に専門学校のレクチャーの仕事が入って助かったけど、何もなくても何とかする。これは、誰か招待券下さいというメッセージではなく、自腹で行くという決意表明。