●ああ、今日は九月十一日なのだなあ、と思った。野次馬的な感じで、新宿のジュンク堂トークを聞きに行った(「ロスジェネ世代と考える90年代---オウムとは何だったのか」大澤信亮、島田裕己、早見慶子)。ロスジェネともオウムとも関係ないけど、島田裕己のヤマギシ会の話と、早見慶子の新左翼時代の話が面白かった。島田裕己によれば、ヤマギシ会は、割とゆるい感じの人が多くて、社会を変えようという意志とはあまり関係なかったのだが、それでも、ヤマギシ会でつくっている卵が、全国の卵生産量の一パーセントを超えることがあれば、それで何か世の中が動くんじゃないかという感じが、何の根拠もなく皆で共有されていた、という。あるいは、早見慶子は83〜90年という、もろにバブル期と一致した時期に新左翼運動に関わっていたというのだが、その頃の活動家のあいだでは、世界の情勢からすれば、うまいことすれば今こそが、日本でも革命が可能な時期なんじゃないかという感覚が、本気で共有されていたという。現在ならまた別かもしれないが、ぼくの感覚では、バブル期というのは革命から最も遠かった時期だと思うのだが。
これらの話は、外側からみれば、ほとんど笑ってしまうような非現実的で根拠のない妄想としか思えなのだが、ある組織の内部では、トップダウンで教育された(洗脳された)というわけでもなく、それぞれの活動員のレベルで発生し、実感をもって信じられ、まさにその根拠のない実感のリアルさこそが運動を支えていたというようなものなのだと思う。ぼくには、そういう話がとても面白い。けっきょく、人が生きている現実というのは、そういうレベルの、リアルな妄想としての現実なのではないか。それは、カルトの中とか外とか、あんまり関係ないように思う。
勿論、「王様は裸だ」と正しいことを言うのはとても重要なことだし、実際、いつでも誰かによって正しいことは常に言われつづけているのだと思うのだが、しかしその「正しいこと」は、ただそれだけでは決して力を持たないのではないか。「王様は裸だ」という現実と、「立派な衣装を着ている」という人間的現実は常に二重底になっていて、はじめて機能するのではないだろうか。知的であるとか、何かを知っているということによってでは、決してこの二重底から自由になることは出来ないと思う。そこに人間の存在の怪異がある、というか。ここを考えない限り、「科学主義」だけでは、何もどうにもならないと思う。
●ところで、このトークイベントでは、壇上にも客席にもスタッフにも、一人も顔見知りの人がいなかった。ぼくは、こういうところでこそ和んでしまうというか、リラックスしてしまうのだ、ということを改めて自覚した。誰にも挨拶しなくていい開放感というのか(「挨拶をする」という行為が、ぼくにはとても難しい)。ただ、ぶらっと行って、ぶらっと帰ってくる。公の場(という言い方も変だが)に、顔見知りが一人でもいると、肩が凝ったような緊張を感じてしまうというのは、我ながらやはりちょっとおかしいと思うのだが。人と二人で会うのは相手が初対面の人でも全然平気なのに、三人以上になると緊張する、というのも、やはりおかしいと思う。
●保留になっていた原稿の掲載が決まったというメールが来る。これで、十月いっぱいくらいまではなんとか生きてゆける。少しほっとした。その先は真っ白だけど。
●DVDで観た、『きつね大回転』(片桐絵梨子)がたいへん面白かった。冒頭のエスカレーターの場面がとにかくすばらしくて、これからどんなデタラメなことが起きるのかとドキドキしていると、その後の展開は、しっとりとした怪談が端正につづられるという感じになって、これはこれで面白いのだが、それでも最初の乾いた荒々しい感触とは違っていて軽くがっかりするのだが、途中で、柿の実を採るために男がきつね女を肩車すると、いつのまにか男が一輪車に変えられてしまっていた、というイメージの展開がすばらしくて、おーっ、と思う(この場面が時間を前後して語られ、それによって、まず、自転車置き場で倒れている男、そして回想を経た後、自転車置き場で倒れている一輪車という風に、イメージが差異を伴って繰り返されるのも面白い)。その後も、男を取り返そうとする女が、きつね女にむかって「ワン、ワン」と吠えながら襲いかかったところでカットが途切れ、次のカットでは女の口のまわりが何故か血で汚れているとか、ラストの、唐突でバッサリとした女の敗北とか、そういう、有無を言わせず起こる唐突なイメージの展開力のようなものに、この作家の才能を感じた。この作品に関しては、端正な描写や世界の作り込みと、イメージの展開の暴力的な唐突さとが同居しているところが面白いのだけど、徹底して、荒々しいイメージの展開力だけで押し通すような作品も観てみたいと思った。