『かみちゅ』

●『かみちゅ』とかをDVDで観た。
●『かみちゅ』は、1話と2話とが収録されたDVDの一本目だけを観たのだが、ゆるゆるの『千と千尋の神隠し』みたいな話で、結構楽しんで観られた。特に、全く説明抜きでシュールに展開する1話はかなり面白い。キャラクターを始め、表現を構成する個々のパーツはまったくアニメ的な類型によってつくられていて、アニメに詳しい人ならおそらく無数の参照元を指摘できるのだろうけれど(ぼくはそれを具体的に指摘は出来ないけど、そうであろうということは充分に感じられる)、そのような、ジャンル的無意識の累積によってはじめて可能になるような「濃い」世界が展開されている。樫村晴香は、未来や進歩といった概念は、産業革命的な重厚なテクノロジーの発展によって裏打ちされたもので、現在のように、人間の無意識をコピーして外在化するようなソフトなテクノロジーが支配する高度な資本主義的世界においては、未来という概念が成り立たず、未来はまるで過去=記憶からやってくるかのような感触をもつ、と書いていた。尾道をモデルにした実際にはありえない「懐かしい田舎」を舞台にし、外見といくつかの性格上の特徴しかもたないキャラ的な素朴な少女ばかりが動き回り、様々な「日本の神様たち」が登場するこの作品は、最近流行っている「疑似ノスタルジー」(による癒し)のような感性を基盤としているのは明らかなのだが、そこには収まらない(ジャンル的無意識の累積による)固有の充実した質があり、「濃さ」が隙間からにじみ出ている。こういう作品を観る時、他人の無意識を覗き見ているというか、他人の無意識のなかに巻き込まれているような、不思議な感触に襲われるのだった。
かみちゅ』に限らず、ある種のアニメ(現実的には当然あり得る、様々な摩擦や緊張や対立が丸く均されていて、独自のゆるーい感じが世界を満たしているようなもの、例えば『魔法先生ネギま!』とか)を観ている時に感じるのは、現実的なものから切り離され、あまりにもだらしなく快楽原則に寄り添ってしまっているという感触なのだが、そのだらしなさやゆるさが可能にするイメージのアナーキーな接合が、ところどころでふと「ヤバいもの」にまで届いてしまっている、という側面も感じられる。アニメは絵であるから純粋なイメージとしてあり、その表現において外的(現実的)な対象から制約を受けることがなく(勿論、技術的なもの、そしてそれを支える経済的なものという制約はあるのだが)、だからアニメの原則はどこまでも(外部や他者による)歯止めがなく快楽原則の波動に近づき、(現実からみると)果てしない変形がなされてゆくだろう。(それを簡単に言うと「退行」ということなのだが。)その行き先を見失ったような歯止めのなさや、危うさが、アニメ的な表現技術の累積と相まって独自の質をつくりだすことがある。ぼくはそのような作品がつくりだす固有の「質」を観て、一方で強く抵抗を感じつつ、もう一方でその振動に否応なく巻き込まれ、ぼくの一部分がそれと同調しようとしている気配を感じ、それを「ヤバい」と感じている。そしてその「ヤバさ」の感触こそを、多分ぼくは楽しんでいるのだろうと思う。『かみちゅ』は、『フリクリ』のようには突出した作品ではなく、多量に生産され消費されてゆくマニア向けアニメ作品のなかで比較的良質であるという程度のものなのだろうし、この作品を無条件で持ち上げようとする気はまったくないのだけど、こういうものを観ることの面白さを、ぼくは否定し切ってしまうことが出来ない。