●『おろち』(監督・鶴田法男、脚本・高橋洋)について。以下、ネタバレを含むけど、「ネタ」と言っても、この映画のネタは原作のそれと同じで、原作は有名なマンガなので、別に隠す必要もなく、観客は既にそれを知っているという前提で、この映画はつくられているはずなのだが。
●イメージは時間の外にある。よって時間のなかに何度も反復的にあらわれる。ここで、時間を超えた(時間の外にある)イメージの同一性とは一体何なのだろうか。同一性というのは、勿論、寸分違わずまったく同じだということではない。そこに、「同じだ」というしるしが現れているということだ。だからそれは、世界の側にあるというよりも、それを同一と見なす「頭のなか」にあると言えるのかもしれない。イメージとは常に、トランプの配置でしかないものを世界のなかの諸関係のあらわれとして「読む」といった、占い的な短絡的重ね書きと無関係ではないのだ。
それは本来、翻訳可能性と捉えるべきものかもしれない。英語で書かれた文と、日本語で書かれた文。その二つは、文字も、単語も、文法も、そこに意味を発生させる共時的構造も、すべて異なる。しかしそれは、一方からもう一方へと翻訳することが可能である。翻訳することが可能であるという事実によって、その双方に「意味の同一性」が生じる。本来、意味の同一性は、異なる体系の間に翻訳が可能であることによって、そこで実際に翻訳が行われることによって、はじめて、事後的に創造される。しかし、一度、翻訳が可能であるという通路が開かれると、あたかも、その二つの異なる体系の外に、「意味の同一性」という第三の、超越的な次元が存在するかのような幻影があらわれ、その幻影は実体化して、それぞれの体系の内部に力を及ぼし、影響を与えるようになる。ここで、最初の「翻訳が可能であった」という出来事(意味の同一性)は外傷的記憶となり、体系の内部に位置を持たないまま、幽霊のようにその内部に響きつづけるだろう。
●つまり、イメージの同一性などというものは、この(一つの体系としての)オブジェクトレベルの世界のなかには、どこにも存在しない。この世界では同じものなど一つもない。しかしどこにも存在しない「それ」が、この世界のなかで常に強い力を発揮し、物質そのものまでをねじ曲げるほどの力をもつ。
●異なる系にある複数のものの間に、翻訳(交換)が可能となる。意味の同一性、あるいはイメージは、このことによって可能になる(だからそれは、たんに視覚的な類似性のことだけを言うのではない、構造的な同一性さえ、おそらく「イメージ」なのだ)。物質=個体としては異なる組織体であるはずの、母と娘の間、姉と妹の間、映像と物質の間、あるいは、たんに年格好が近い赤の他人との間でさえ、イメージの反復は強く作用するだろう。イメージの反復によって「系譜」が可能になる。あるいは、「系譜」が強いられる。
●余談だが、最近の柴崎友香の作品がその作品内部に強く響かせているのも、イメージと翻訳の問題だと思われる。そこでは視点が一人称の「わたし」に常に限定されることによって、「わたし」は「わたし以外の場所」への様々な位置の移動へとうながされることになるのだ。そこで「わたし」以外の無数の「別の私」との翻訳(位置の移動・交換)の可能性(への予感や不安)、その実現、あるいはその失敗、あるいはその不可能性が、様々な具体的な場面の感触や感情とともに描き出される。だからそこには必然的に、分身や幽霊の影がつきまとうのだ。分身や幽霊という主題が先にあるのではなく、翻訳=他者との関係=位置の移動によって生じる、具体的な場面の感触やそこに発生する感情こそが、イメージの同一性を生じ、そのイメージの影が分身や幽霊としてあらわれる。ここで、「わたし」とわたし以外の誰かとの間の翻訳(位置の移動・交換)は、時に、感情を媒介とし、時に場所の共有を媒介とし、時に空間的な位置関係を媒介とし、時に人間関係における構造的位置関係を媒介とする、といった具合に実に多様である(特に『ドリーマーズ』において)。あるいは、「本の話」の最新号に掲載された「金魚」という短編では、喘息の経験を媒介とすることで、同種の孤独の感触が、しかしその「孤独の内実」をまったく空項としたままで、しかし確かな実感をもって他者と交換されるという驚くべきことが起こっているのだが、この点についてはここではこれ以上触れない。ただここでは、『おろち』において重要な主題となる、姉妹の間での「経験の交換」とでも言うべきものが、柴崎友香の小説においても(様々なニュアンスへと変奏されながら)同様に問題となっていることを指摘するにとどめる。
●『おろち』では、複数の双数性が複雑に響いている。母と娘、姉と妹、女優と映像、おろちと不幸な少女。しかしその双形性は、物質的な基盤をもたず、正統的なものではない。姉と妹は「姉と妹として育てられた」のであって血のつながりはない。だから、母と娘の関係も、姉の方には血のつながりはない。イメージとして、そっくりな姉妹、そっくりな母娘は、実は血のつながりという物質的な基盤を持たない。『おろち』において実現されていることの一つは、実在しないはずのイメージの同一性が、物質的な基盤(実在)としての血のつながりを超えて強い力をもってしまうという事実だ。実際には血のつながりのない姉は、母の映像を繰り返し見て、実の娘である妹以上に母のイメージにとらわれ、みずからそのイメージの反復を生きようとする(整形してまで)。ここで、母の「美」の反復は同時に母の「呪い」の反復でもあり、それを受け入れるということだ。しかし本来、母のイメージ(映像)の反復と、母の呪い(物質的基盤としての血)の反復とは別物で、切り離されている。姉は母の呪いを背負い込む必要はないのだ。にもかかわらず、母の美に捕らわれている姉は、自ら進んで自分の顔に焼き鏝を当てることで母の呪いをも反復しようとする。それは物質的な次元に対するイメージの次元の勝利を意味するだろう。
●勿論ここには、姉妹というもう一つの(偽の)双数性の力が作用している。そっくりな姉妹として育てられ、当然「呪い」をも共有されていると思っていた姉妹の妹は、実は姉には血のつながりがないことを告げられる。姉は既に、イメージ=美としての母を反復し、女優となっている。しかし自分は呪いとしてのみ、母を反復するというのか、と当然妹は思うはずだ。美を共有するとともに、呪いをも共有していると思っていた二人は、実は、美は姉が担当し、自分は呪いのみを担当するというのか、と。そこで妹は、姉をだますことで立場(位置)を逆転させようとする。勿論、姉を騙したとしても、物質的な次元で作動する自らの呪いから逃れることなど出来ない。物質的な次元では位置の移動(翻訳)は不可能なのだ。私の身体の死は私の身体の死でしかありえず、それを他者に代替することは出来ない。この逆転はせいぜい心理的なものに過ぎない。しかし、イメージの同一性は、たんなる「心理」を超えた、経験の翻訳とでも言うべきものを可能にする。
妹の策略によって、自分一人が孤独に呪いを背負うと思い込んだ姉に対し、策略の主体であり、すべてを知った上で状況を操作しているはずの妹は、しかしたんに姉への復讐を超えた位置に自分を追い込んでゆく。絶望して暴れる姉の暴力をひとりで受け止め、姉の血液をすべて入れ替えるという、無謀であると同時にまったく意味のない行為(姉には血の呪いはないのだから)を真剣に推し進めようとする妹は、この時、実際に姉とその存在の位置を交換していると言ってよいだろう。妹は心のなかで姉に対してぺろっと舌を出して笑っているのではなく、すべてを知って外から関係を操作しているだけでなく、同時に、ここでは状況の内部にいて本気で姉と入れ替わってもいる。絶望した姉がひたすら妹を責め立て、しかし妹は全てを知っているという、本来きわめておぞましいはずのこの一連の場面がなぜか感動的なのは、ここでたんに「相手の身になる」という次元を超えて、身体という物質的基盤の固有性を超えて位置の逆転が起こり、どちらか一方が優位なわけではなく、二人ともに同等に、経験を交換させ、互いの経験を経験することが成立しているからだろう。母親の映画のセリフ、「たった三日間だけ、わたしは本当に生きていた」という、その本当に生きていた限定的な時間とは、物質的身体の限定を超えて経験を交換し得た、あのおぞましい日々のことでもあろう。
●しかしここまでは、もともと原作「おろち」にあった主題の可能性を、より深く追求したということだろう。この映画作品で真に独自なのは、語り手であるおろちの位置の変化であり、おろちと、不幸な少女との双数性にある。ここにこそ、作家としての高橋洋のユニークな点があるように思われる。この双数性は、『狂気の海』で中原翔子の二役によって演じられる、首相夫人マッチーと、地下帝国の女王との関係に近いように思われる。しかしこの点については、もうちょっと考えてから、改めて書きたい。