●『島田陽子に逢いたい』(いまおかしんじ)をDVDで。今までぼくが観たいまおかしんじの映画から考えると、島田陽子いまおかしんじ好みの、あるいはいまおかしんじの映画に適切な女優とは思えない。ぼく自身も、島田陽子の演技が良いとも、島田陽子が良い女優だとも思えない。しかしこの映画では、いまおかしんじの映画であるよりも、島田陽子の映画であることが優先されているように思われる。その点が(あるいはその点だけが)この映画の美しいところではないかと思った。
島田陽子島田陽子という女優としてキャリアを重ね、そのように現在まで生きてきて、島田陽子という女優として今、存在しているという、そのことに対して最大限の敬意が払われている。島田陽子は、いかにも島田陽子みたいな演技をする(島田陽子島田陽子の役をしている、ということとは関係なく)。それは、いまおかしんじいまおかしんじの映画をつくるということとは時に相容れなくなる。それでも、島田陽子を自身の映画に適切なように変化させるとか、島田陽子というある程度有名な女優のイメージを異化として利用しようとか、そのような態度はまったくなく、あくまで島田陽子島田陽子であることが尊重される。あらゆるカットに、そのような存在への敬意と配慮が感じられる。そして、その敬意と配慮こそが「この映画」なのだと思う。そのことに感動する。
この映画には島田陽子のヌードがあり、性交シーンがある。おそらくそれが商品としてのこの映画の売りであり、興行的な基盤であろう。そもそもそれがなければこの映画の企画は成り立たない。だとするならば、その基盤である、島田陽子島田陽子であることは最大限に(映画としての良し悪しよりも!)尊重されなければならない。と、いまおかしんじが考えたかどうかは知らないけど、実際にそのような映画になっていると思う。
いや、そうではなくて、いまおかしんじの映画では、俳優に対する態度はいつもかわらないのかもしれない。ただ、島田陽子が「有名女優」であるから、それが際立ってみえるだけかもしれない。そのような態度をヌルいとか物足りないとか感じる人には、いまおかしんじの映画の美しさや強さは分からないかも、と思う。