●散歩の途中で立ち寄った本屋で立ち読みをしていて、「真夜中」に載っている保坂和志の「遠い触覚 『インランド・エンパイア』へ(3)」がすごく面白かったので、立ち読みだけで済ませるわけにはいかなくなって、買って帰った。ぼくは一昨年の十一月に中央大学で保坂さんと対談していて、ここに書いてあることとほぼ同じようなことを確かにその時の保坂さんも言っていたということを思い出すのだが、改めて読んで、ここに書かれていることはやはりとても面白いし、とても重要なことのように思って興奮した。とはいえ、最近の保坂さんの文章は要約するのがほぼ不可能だし、要約してしまったらほとんど意味がなくなってしまうようなものなので、そのごく一部を引用して、それについてぼくが勝手に考えたい。
《夏の夜、羽化寸前の蝉の幼虫が地面を這っていた。それをみつけたお父さんが子供に、
「あ、これは蝉の幼虫だよ。ほら、蝉の抜け殻と同じ形をしているだろ?
一晩かかって、蝉がここから抜け出てきてねえ、明日の朝には蝉になってたんだ。」》
この父親の言葉は、文法的にはおかしいのだが、意味としては普通に通じる。普通に通じるのだが、微妙な感触が与えられる。ここでは、蝉の幼虫と成虫、そしてその抜け殻という三つの様態と、脱皮という一つの出来事が、今、目の前にあって見えている「蝉の幼虫」のなかに重ね合わされて、同時に想起されている。しかし、ここでは、図表のようにそれらが並列的にあるのではなく、目の前にあるのはあくまで蝉の幼虫なのだから、脱皮という出来事、蝉の成虫という様態は、未だ訪れてはいない未来に属し、未知へと向かう、ある時間の流れの方向性(矢印)が生じていて、それは「明日」という言葉に現れている。だが同時に、今、目の前にいる蝉の幼虫の姿は、父親が以前見たことのある蝉の抜け殻、脱皮の様子、そして蝉の成虫のあり様の記憶と一体になっているから、まるで過去の出来事のように、蝉が「ここ」から抜け出して、既に蝉に「なってい」るものとしての「明日」が回想のように想起されている。たんに、複数の時間が同時並立的にあるのでだけではなく、ある指向性、方向性が立ち上がるのだが、その方向が知らぬ間にかわっていて、未だ訪れていない未来が、まるで過去の方からやってくるかのように感じられるようになる。この感じを保坂さんは、《そっちに向かっていた矢印がポキンと中折れしたような気》という風に言っている。
ただ、無時間的、潜在的、マトリクス的な時制の同時並列があるのではなく、そこには時間の流れる萌芽があり、指向性、方向性が生じはするのだが、しかしその行き先は決して定まっているわけではない。時間が無いのでもなく、あるのでもない。ある物が唐突にあらわれ、しかし時間は記憶の方に向かって流れる。「明日」という未だ訪れてはいない時間への予感は、かつて「明日」だった、既に過ぎ去った過去-記憶によってしか開かれない、というべきか。あるいは、未だ訪れていない明日は、既に過ぎ去った明日と同時に存在する、と言った方がいいのだろうか。しかしそれでも全然言い足りない感じがするのだが。確かにこの感じは、リンチの映画を見ている時の感触にとても近いように思われる。そして保坂さんは、この感触を、『ロスト・ハイウェイ』で、ある人物が別の人物に入れ替わってしまうこと(そいうい出来事をリアルなものとして受け入れること)の基礎的な感触として捉えようとしているように思われる。
●同じ文章で、分身と入れ替わりについて、次のように書かれていた。
《ある朝目が覚めたら自分が消滅してそこに他の人間がいた。これではすでに自分は消滅しているのだから、そこに驚きようもない。しかし分身が生まれていたとても、この私の意識が継続しているのはどちらか一方だけであって、もう一方=分身の気持ちはこの私は感じていない。追いつめてゆくと、分身も入れ替わりもやっぱりあんまり違わないような気もする。》
ぼくには、分身ということを意識する心持ちになった瞬間から、自分の意識は自分の身体から軽く離れているように感じられる。しかしそれは、二つの自分の身体を均等に眺めている感じではなく、やはり自分の意識は一方の自分の方に寄り添っていて、もう一方の自分は遠くにいるか、切り離されている。存在としては「私」が均等に配分されているとしても、意識としては不均等か、または切り離されている。自分でありながら、自分から忘れられている自分。しかし、それを忘れているということを、どこかで勘づいている感じ、というのか。そして、自分が二重化することは、時間と空間とが二重化(多重化)することと密接に繋がっているように思う。だから分身は世界の分裂の予感と共にある感じがする。
「私」の意識が「この私」の意識である以上、「私」が同時に二つの身体に存在することは出来ない、というのは本当だろうか、と思う。前にテレビで、工学部の先生が自分とそっくりのアンドロイドをつくって、それを別の部屋にいてモニターで見ながら遠隔操作して学生たちと話をする、という実験をやっていた。そしてその先生は、操作に慣れてくると、例えば学生がアンドロイドの肩を触ると、自分が触られたように感じる、という話をしていた。ここでは、先生とアンドロイドはかなりの精度でそっくりであること、アンドロイドは先生本人によって操作されていること、が、それを促しているようにも思えるのだが、そこを一歩進めると、自分とまったく似ていない他人、自分とは別の主体性をもっている(自分の自由には操作出来ない他人)が感じた触覚を、「私」の触覚として感じる、というところまでゆくことも可能なのではないだろうか。そうすると、まったく似ていないそれぞれ別々の身体を持った「私」が同時にそこにいる、ということも可能になるのではないか(決して私の自由にはならないその人の意思すらもが、もう一つの「私の意思」になる、とか)。さらに言えば、目の前にあるポットとか、スプーンとかの感じる触覚すらも、私のものとして経験することも可能なのではないか。目の前にあるドライヤーを指差しながら、「ほら、オレがそこにいるだろ」と言うことも可能になる。私が「あなた」を指差しつつ、そこにオレがいる、とさえ言える。