●北千住のシアター1010で、カンパニー マリー・シュイナール「オルフェウス&エウリディケ」を観た。まったく何の予備知識もなく、知らないカンパニーだけど、招待券を分けていただいて観た。
感想としては、今のヨーロッパの(カナダのカンパニーだけど、まあヨーロッパということでよいと思う)アートシーンというのは、ダンスに限らず、みんなこんな感じなのだろうなあ、息苦しいなあ、という、うーん、という感触だった。ダンスの質自体は悪くないと思うし、決してダメダメだということではないのだが、一言で言っちゃえば退屈。オリジンであるテキストとしての神話があり、モダニズム的な禁欲からは遠く、おちゃらけや悪ノリや下世話もふんだんに盛り込んでそれを換骨奪胎し、一種の開き直った原始主義的な身体性の提示(祝福された生命)があり、しかしそれは同時に「原始」のシミュラークルでしかないという冷めた感覚とどちらともいえない微妙さを含み、かつ、全体としては知性によってコントロールされたバランス感覚があって(例えば、ジェンダー-フェミニズム的な文脈への行き届いた配慮)、エンターテイメントとしてもそこそこ楽しませる。ポストモダン以降の、括弧つきの「良く出来た」作品。だから退屈、みたいな。
おそらくヨーロッパには、「芸術」という枠が、一流大学の難関学科みたいなものと同等の感じで「既に-常に」あって、アート全体で席がいくつ、そのなかでダンスのパイがいくつで、さらに絞られてコンテンポラリーがいくつ、と。それは確かに狭き門で、厳しい競争があるが、とりあえずその競争に勝って「席」を手に入れれば、まあ成功と言える、みたいな。厳しい競争があるので、そこには一定の身体能力、身体技能、それを司る知性などの水準が確保され、それを支える土壌としてのすそ野も存在する。そしてこの作品は、そのようなアートシーンのなかで「席」を取るための、考えられる一つの模範解答に近いのかもしれない。しかし、「面白い作品」って、絶対そんな風には生まれない、という気がぼくはする。
日本にはそもそも(大学という「制度」というような意味での)「芸術」という枠が存在しないから、「席」がはじめから用意されているわけではない。だから、(そんなに詳しくないから、ほとんどいい加減なカンで言っているだけだが)日本のコンテンポラリーダンスをやっている人たちは、身体技能という点ではヨーロッパに見劣りするかもしれないけど、自分たちの「作品」の力によってその「席」そのものをつくりだすしかないというような場でやっている分、それだけ、面白いものが生まれる可能性がずっと高いように思われる。というか、ぼくがそういうところにしかリアリティを感じられない、ということなのだが。
●観ている間ずっと、ストリップの幕間のコント(というか、ストリップそのもの)+欽ちゃんの仮装大賞、のハイグレード版としか思えず、でも、それはそもそも、ハイグレードではないからこそ面白いんじゃないかと感じていた。このような公演が立派な劇場で行われ、高いお金を払って、着飾った紳士淑女の皆様方が集まって来て、かしこまって鑑賞する、ということ自体を皮肉として楽しむ、かのような、この場の成り立ちそのものが、何かとても鬱陶しい。ただ、八十分弱くらいの公演時間のなかで、多分、五分にも満たない時間だったと思うけど、一瞬、舞台の上が計算外としか思えない、天国的な混沌状態になった時があって、その場面を観られただけで、観に行ってよかったとは思った。この五分を出現させるためにこの公演全体があったのだとしたら、今までぼくが書いたことはすべて不当なことかもしれない、とも思う。