●横浜のSTスポットで、神村恵カンパニー「配置と森」。朝、佐々木敦さんのブログをみて、なんとなく気まぐれでぶらっと行ってみたのだけど、観に行って本当によかった。とにかく面白かった。ぼくがいままで観たダンスの公演で、一番強く、深い刺激を受けた。(「配置と森」というタイトル自体も、それだけで面白いと思う。)
はじまってからしばらくは、何をやろうとしているのかよく分からなかったし、面白いとも思えなかった。途中で、二人のダンサーが組んで、レスリングみたいな絡みをするようになったところで、ちょっと、「おっ」と思い、その後、多数の立方体のオブジェを、ダンサーたちが舞台上で様々に配置し、配置し直し、しかし同時に、そのオブジェを配置するダンサーの身体や動きもまた、別のダンサーによって配置し直される(それをお互いにし合う)、というような展開になった時、この公演でやられていることの感じを掴めたように思われ、その後は、舞台上でなされることのすべてが面白く、同時にその精度が半端ではないことも伝わってきて、とにかく、できるだけ長くこの舞台がつづいて欲しいと思いながら、もう夢中で観ていた。立方体のオブジェが積み上げられて、舞台の四隅に片付けられた後、ダンサーが、四人、三人、二人、二人+二人、三人+一人というようになって展開されるダンスを観ていて、今、この人たちが、ここでやっていることは、とてつもなくとんでもないことではないかと思えてきた。
四つの、それぞれ切り離され、中枢化された身体があり、その別の身体が同じ仕草をすること。それが別の時間の系列として、しかし同一の空間のなかで起こること(しかし、同一の空間って何なのか)。一人が誰かに倒される。それに一呼吸遅れた別の人が(倒されたわけではないのに、自ら)倒れる。その時、本来別の動きであるはずの「倒れる」という動作が連鎖したように見える。しかしそれは本当に「別々の系列」と言えるのか。二人の人物がレスリングのように絡み合う時、そこにはあきらかに相互の力の作用-反作用の複雑な絡みがあるようにみえる。だが同様に、四人の人物がそれぞれバラバラに動き、しかしそこに結果として(それを観ている側からすれば)、ある力や仕草の連鎖や絡みが、あるいは展開が、図柄が、あるように見えてしまうということ。しかし、レスリングのような絡みの力の作用も、本当のことを言えばどの程度、力が絡み合っていると言えるのか、また、四人のバラバラの動きは、本当に相互作用はないのか。相互作用があるとしたら、それはどのようなものとしてあるのか。
こんなに凄いことが、たった三日間、四回のステージ、それもせいぜい五十人が六十人くらいの観客の前で行われるだけなんて、なんともったいなく、しかしなんと贅沢なことなのか。すごいことというのは、この世界のなかで、こういう風にして起こっているのだ。これをたまたま観ることが出来たのは、世界に対するぼくの負債であり、今後、これを観てしまった責任を背負って生きてゆくことになるのだろう、という風にさえ思ってしまった。
今日、観られたことを、簡単に言葉には出来ないし、また、したいとも思わない。この「感じ」を、出来るだけ正確に、ちゃんと自分のなかで保持しておきたい。どうせ、細かいところはすぐ忘れてしまうのだろうけど、残るべきところは、ちゃんと残ってくれるだろう。