●昨日、観ることが出来た「配置と森」の余韻が体じゅうに残っている。すごい作品を観ると、身の回りのもの全ての見え方がかわる。というか、今までの自分は一体どこを、なにを見ていたんだ、と思う。普段なら、二時間か二時間半くらいでまわる散歩のコースを、今日は五時間くらいかけて歩いた。見えるものすべてが面白いので、いちいち立ち止まってしまう。立ち止まるというより、軽く、身動きができなくなるという感じだ。面白いというより、動揺してしまうくらい胸の奥まで深く差し込まれる。とても天気が良くて、光が美しかったということもあるけど。絵が描きたいという気持ちが、体の内側から波打つようにひろがってきて、その波が静かに、少しずつ、大きくなってゆく。
●ほとんど全ての人は、出来ることならばダンサーでありたいと思っているのではないだろうか。ダンサーの行為は、それが終わった後に何も残さない。勿論、その身体には、それを可能にするために積み重ねられた試行錯誤や練習の過程によって得られたもの(技術)が蓄積されているだろうし、その作品を再演することだって可能だろう。しかしそれでも、その日のそのテンションは、その場で消える。そして、その日のその場で消えてしまうものに向けて、自身のもっている身体や思考の能力の全てが投げ出され、捧げられる。そこで投げ出され、捧げられたものは、その行為は、世界に対しても、他人に対しても、何かしらの「約束をとりつけ」ようとするものではない。約束の取り付けとは最も遠い行為だ。消えてしまうものを担保に、言質を取り、約束を取り付け、保証を受けることはできないからだ。それは何かに向けて無償に捧げられる。(その捧げ先は、決して、その日たまたまそこに居合わせただけの観客ではないだろう。それを捧げられるに値するかどうか分からない観客に向けて、あれだけのテンションが傾けられ、高められるとは思えないからだ。観客の視線は必要だとしても、それは何かもっと大きな別のものの代替物ではないだろうか。)
そして、そのような、「約束の取り付け」とはまったく関係のない行為だけが、人を動かし、何かから解放する。そのことに(そのことたげに、では勿論ないが)、多分ぼくはすごく動揺し、感銘をうけた。
ぼくは昨日の日記に、こんなすごい場にたまたま居合わせることが出来たことは、世界に対する負債となり、責任を追うことになる、ということを書いたのだが、それは、このような「約束を取り付けようとしない行為」の高貴さに打ちのめされ、動かされたからだと思う。でも、あの場で動いていたダンサーたちは、決して、世界への、あるいはダンスというジャンルへの負債や責任によってではなく、もっと別のものに向かって、あるいは別のものに動かされて、動いていたのだと思う。だから多分、そのような言葉を使ってしまったのは間違っていた。
(勿論、社会生活は約束や責任によって成り立っており、ダンスの公演だって、時期を決めて場所を借り、主催者と約束し、公演の予告を打ち、観客から料金を取って行われるのだから、約束と責任に基づいている。しかし、そこで起こることそのもの、そこで行われることの質は、それとはまったく別の次元の事柄だ。)