●昨日の日記では、ダンスがその場で「消えてしまう」という側面を強調しすぎているかもしれない。もし本当に全てが消えてしまうのだとしたら、そもそもそれは作品とは言えない。それは何かを残す。というか、それが作品であるということは、そこに何か(イメージ-かたち)を立ち上げているということで、そのイメージは既に何かの反復で、作品とはそもそも、何かしらのイメージが反復され、送付(回付)される媒介としてある。だからまた、その作品によってたちあがったイメージは、別の時空へ、別のマテリアルへと送付されるだろう。作品は既に、何かの反復としてある。しかし何かが反復されるためには、その反復されるものが、その都度あらたに、その場で、そこにあるマテリアルによって、つくりだされなければならないだろう。
●例えば、作品そのものと(というか、作品がたちあげているイメージと)、作品の制作を支えているあるアルゴリズムとは別のものだ。作家は、作品のきっかけとしてある「何か」からはじのり、それを作品へと展開させてゆくためのアルゴリズムを(決して意識的にではないが)もつ。アルゴリズムという言い方がどこまで正確なのか分からないが、あるモチーフを作品にまで展開させてゆく方法とか技法とか規則とかいったものだ。しかしそのアルゴリズムそのものはイメージをもたない。あるいは、作品を制作しようという意欲をもたない。最初にあるモチーフ(きっかけ、リアリティ)を、あるアルゴリズムに乗せてみて、それが上手く作動するかどうか(つまり、きっかけとしてあったリアリティが消えてしまっていないか、それがより強いものへと発展しているのか)の判断は、アルゴリズムそのものには含まれない(つまり、アルゴリズムは事前に、時間の外にあるというだけでなく、制作と同時にかたちづくられ、変更されるという側面をももつ)。だから、この作品のモチーフはこれこれこういうことで、それを、このような技法や規則で発展させて、この作品をつくりました、という説明では、作品がたちあげているイメージの質そのものを説明することができない。
●とはいえ、あるモチーフを、具体的にどのようなやり方で発展させていったのかという話は、常に面白い。そのような話が面白いのは、完成された作品の形、あるいはその作品がたちあげるイメージは、はじめから「それ」が目指されていたのではなく、結果としてそうなったのだということが知れるからでもある。むしろ、「結果としてこうなった」ものについての話-分析よりも、それが「このような経緯でそうなった」という話の方がずっと面白かったりする。作家の固有性はむしろそこにあったりもするし、作品をつくろうとする者にとって実践的に役立つのも、そのような話だ。ただ、そこで抜け落ちてしまうのは、完成された作品のもつテンションであり、強度であろう。すぐれた作品のもつ、その作品固有のテンションや強さや質は、それをつくった作家の(制作過程からよりよく知られるであろう)固有性や感触とはまた別の、自律したものとしてある。すぐれた作品を一度つくることの出来た作家ならば、それと同等の感触をもつ作品を今後もつくることが出来るだろうが、それと同等のテンションとリアリティをもつ作品をつくれるとは限らないだろう。
●「配置と森」の公演時に配布されたリーフレットに、神村恵は次のようなエピソードを載せている。それはKという友人から聞いた宮大工の棟梁の話だという。
《その棟梁は茶道をたしなんでいる、
自宅にはお茶室があって、たまに知り合いを招いてお茶会を催す。
お茶会の日の朝、彼とその奥さんは、お茶室までの小道に落ちている落ち葉を、一枚一枚布で拭いて、落ちていた元の位置に戻す。》
この話を、もし「この話」としてだけ聞いたならば、ぼくはそれに大した興味はもたなかったと思う。へぇー、と思い、いかにもありそうな話だとしか感じられなかったかもしれない。しかし、「配置と森」を観た後に、帰りの電車のなかでこれを読んで、このエピソードに強い印象を受けた。
この話が、「配置と森」という作品を説明しているわけでもないし、その制作過程や制作動機を説明しているわけでもない。この話のもつ静かなイメージと、「配置と森」という作品の、もしこんなことを毎日つづけていたらダンサーは死んでしまうのではないかと思われるくらいの激しい動きと高いテンションとはまったく違うから、この話が「配置と森」という作品と似ているというわけでもない。しかし、この話が差し出している「小さな謎」のようなものの感触は、「配置と森」という作品のもつある感触と何かしらの形で響き合ってはいると思われる。
この話それ自体としてでは、面白いとは思わなかったかもしれない話が、「配置と森」という作品の傍らに置かれることによって、とても印象深い、忘れられない話になるということ。そして、簡単に憶えられるシンプルなこの話を思い出す度に、(この話の「内容」にはまったく含まれていないはずの)「配置と森」という作品から受けた、その感触、そのテンションの、少なくともある一部分だけは、おそらく思い出すことが出来るのではないだろうかと思う。これはすごいことなのではないだろうか。というか、言葉と作品というのは、このような形でしか関係出来ないのかもしれないとも思った。
●ぼくは昨日の日記で、ダンサーたちのパフォーマンスは、実際に(たまたま)目の前にいる、それを捧げられるに値しないかもしれない観客に向けてというよりも、もっと大きな何かに向かって捧げられているのではないか、という風に書いたのだが、しかし、そのような言い方は、あらかじめ、捧げられるに値しない観客と、もっと大きな何かとを分離させてしまっているのだが、しかし実際は、たまたまそこに居合わせただけの、それを捧げられるのに値しないかもしれなかった観客が、そのパフォーマンスによって変質し、(少なくともその場だけでは)「より大きな何か」になる(重なる)かもしれないことこそが、その行為の遂行によって目指されているということなのではないかと思い直した。