●お知らせ。今年の八月に、大分の大分市アートプラザで行われ、ぼくも参加した、「零のゼロ2008」展の図録が、今朝、主催者の三宮さんから15部届きました。自作のプレゼンテーション用に、自分でも何部かは持っている必要があるのですが、基本的には、こういうものがアトリエで埃をかぶっていては何の意味もないので、もし、欲しいという方がいらっしゃったら、先着で8部までの限定でですが、差し上げます(勿論、無料で)。
「零のゼロ」展に参加した26名の作家の作品図版(全てカラー)と、巻末に、批評家の菅章さん、画家の上田和彦さん、そしてぼくの書いたテキストが載っています。ぼくの作品図版は、まだ大分でしか発表していない、今年になってからはじめた油絵の具のシリーズの作品です。希望される方は、メールに「零のゼロ」図録希望と書いて、お名前と住所も書いて送ってくだされば、郵送します。もし、住所をぼくに教えたくないということであれば、勤務先や実家の住所でもかまいませんし、それも嫌なら、ぼくの住んでいる最寄りの駅まで来ていただけるという条件で、直接手渡しもアリです。都心から、かなり遠いですが。
2005年の川崎IBM市民文化ギャラリーでの個展の図録も、まだ残りがあるので、こちらも希望の方には差し上げます。
●映画『人のセックスを笑うな』(井口奈己)は、とても丁寧につくられたよい作品ではあると思うけど、どうしても乗り切れないのは、永作博美が演じる人物が好きになれないからだと、21日の日記に書いた。この映画の永作博美をみていると、あー、中年ってズルいなあ、不潔だなあ、と思ってしまう。この不潔さを、あまり不潔と感じさせず、エロティックな感触と結びつけ、そしてもう一方で、蒼井優忍成修吾のさわやかさでバランスをとっているところが、この映画を成功させているキモだとは思うのだが。
そして、映画を観ながら、これは小説とは全然違うのだろうなあ、とも思っていた。ぼくが読んだ限りでの山崎ナオコーラの小説の登場人物たちは皆、過剰なくらいに倫理的というか生真面目で、「通俗性」や「不潔であることの官能性」みたいな感触はないからだ。で、小説を読んだのだが、やはり全然違っていた。
最も違うのは、小説では「ユリちゃん」ははじめから結婚していることを「みるめ」に告げているという点で、映画では、永作博美松山ケンイチを騙しているだけでなく、観客も騙している(いかにも一人暮らしっぽい感じの場面がある)。さらに、意図的にそれを「言ってない」のは明らかなのにも関わらず、松山ケンイチが自宅に訪ねてきてしまった時、あれっ、言ってなかったっけ、みたいな調子で、それを告げる。そもそも小説と映画とでは、みるめ-ユリちゃん-猪熊さんの関係がまったく異なっている。映画では、通俗的な、ビッチをめぐる三角関係の話になっていて、年上の女性が若い男を翻弄する話だし、猪熊さんは、あまりに都合のよい大きな心で、その関係すべてを包み込んでしまう。永作博美松山ケンイチから離れるのは、若い男に飽きたからであり、猪熊さんの「大きさ」に、「あ、やっぱこっちだよな」と思ったからだろう。一方、小説では、みるめとユリちゃんとの関係は年が離れていても対等であり、それが「対等」な関係であるという感触こそが、この小説で主に描き込まれていることだろう(この作家の描く「関係」には、いつも「油断のならない」ような緊張がピンと張っているように感じられる)。ユリちゃんと猪熊さんとの関係も(それが充分には書き込まれていないとしても)特異なものであり、通俗的な三角関係のメロドラマにはなっていない。ユリちゃんがみるめから離れるのは、ユリちゃん自身の制作や人生の行き詰まりからの立て直しのためであって、若い男に飽きたから夫のもとに戻ったという感じではない。当たり前といえば当たり前なのだが、映画と小説とではまったく別の話になっている。
21日の日記で、映画では、観客が蒼井優の位置に居る、と書いたのだが、それはあながちいい加減な思いつきといしうわけではなかったみたいだ。みるめの一人称で書かれた小説から、映画では、みるめ-松山ケンイチを主体ではなく客体として扱うために(見られる-翻弄されるという受動的な位置に置くために)、みるめを「見ている人」である、えんちゃん-蒼井優の役割が大きくなっていったのだと思われる(さらに、えんちゃん-蒼井優を対象化し、際立てるために、みるめを見ているえんちゃん、を見ている堂本-忍成修吾、が必要となる)。
ぼくが読んだ限りで、山崎ナオコーラの小説では、いつも「他人との関係」における「倫理性」のようなものが前面に出て来ているという印象がある。他人との関係において、感情、情緒、官能よりも倫理が優先される、というのか。それが意図的に主題化されるというより、常にそこに引っかかってしまうことによって生じる緊張が、作家に小説を書かせていると感じられる。情緒、感情、官能が倫理によって押さえ込まれるのではなく、その間の軋轢が緊張を生む、ということ。そのことが、一見、こなれた読みやすい文章で書かれた小説の表面をゴツゴツさせ、読む者を緊張させるように思う。『カツラ美容室別室』や『長い終わりが始まる』に比べれば、骨組みだけで出来ているようにもみえる『人のセックスを笑うな』でも、この緊張の感触は既に強く感じられた。