多摩川アートラインプロジェクト(http://tamagawa-art-line.jp/2008/10/2008_4.html)のイベントの一つで、東急目黒線の蒲田-多摩川間をはしる三両の電車のなかで、三人の演出家(柴幸男、中野成樹、山下残)がつくったパフォーマンスが行われる、というのを観てきた。一両ずつそれぞれ別のパフォーマンスが行わるので、三つのうちの一つしか観られなくて、ぼくは中野成樹のを観た(「欲望という名の電車をラップにしようとする男の害について」作・中野成樹、ゴウタケヒロ)。午前11時に多摩川駅で整理券が配布されて、開演というか、パフォーマンス用の電車が走り出すのは、午後2時に蒲田駅からなので、その間の時間は、田園調布の古墳と豪邸と巨木と坂の散策をした。パフォーマンスが終わった後、多摩川駅ちかくの公園に40年ぶりに再制作されたという、関根伸夫の「位相-大地」を観たけど、こういう作品は「実物」を観られたからといって、特にどうということはない。しかも、(人が穴に落っこちないように?)柵がつくられ、警備員まで立っているので、作品に近付くことが出来なくて、穴の深さを目で確かめることさえ出来ない。午前中には、駅前の塀に子供たちが絵を描くというイベントもやっていて、ぼくも描かせてほしくてうずうずしていた。
●「欲望という名の電車をラップにしようとする男の害について」は、蒲田から多摩川までの十分ちょっとの小品で、中野成樹とゴウタケヒロの二人が出演した。単純にコントとしてとても完成度が高くて面白かった。ただ、実際に路線をはしる電車のなかで、電車のなかの話をやるという、「そのまんま」さがそのまんまのまま終わってしまった感じもあった。例えば、前に横浜の野毛山動物公園でみた「Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)」の時は、実際の動物園で動物園の話が上演されるのだけど、でもそれは、例えば猿の檻の前で猿の檻の前のシーンが演じられるというようなものではなく、広場に、ミニマルな舞台とミニマルの装置が設置されていて、観客は、(実際の)動物園めぐりの終点としてそこに行き着くのだが、そこへと案内される前、まだ現実と演劇のフレームが仕切られることのない曖昧な領域にいる時にいきなり、観客は役を演じる青年と相対することになって、この時点では(中野成樹がいきなりコンビニのおむすびを食べはじめ、観客の子供に声をかける)「「欲望という名の...」と同じなのだが、「Zoo..」ではその後、観客は舞台へと(役を演じるあぶない感じの青年によって)案内され、青年の(演じられた)演説を聞くような形になる。そしてその後、二人目の俳優があらわれることで、舞台と装置による「劇」としての空間が立ち上がる。という具合に、そこに現実としてある(現実として機能している)空間と、その空間を利用しながらも、そのなかで、その都度に様々な濃度で立ち上がる虚構の場が、互いに引っ張り合っていて、虚構の場は常に揺らぎながら立ち上がっていた。「欲望という名の...」では、そのような意味での、虚構の次元の揺れ動きのようなものが少なかったようにも感じた。
ただ、中野成樹のやっている役が、女性の役なのか、それとも女装している男性の役なのかは、どちらとも決定できず、「あーっ、子供欲しい」という叫びも、女性としての叫びなのか、決してそれ実現をすることの出来ない(女性のイメージに同一化した、性的なマイノリティの)男性としての叫びなのか分からない、という揺らぎの感じはあった。まあ、実際には、たんに女性の役を中野成樹がやっているというシンプルなことなのだろうと思うけど、それでも、女性の役を男性がやるというだけのことで(しかも、その場が現実のはしっている電車のなかなので、観客にとって虚構は劇場で観るより安定しない、至近距離ではっきり見えるし)、そこに虚構の次元の揺らぎが生まれると思う(一方、ゴウタケヒロは、本当にそういう人なんじゃないかと思うほどハマっていた)。あと、中野成樹のもっている2つのエコバックのなかから、いきなり多量の空のペットボトルがあらわれる瞬間は、それ以前までは、劇のなかで機能する小道具としてあったペットボトルから、演劇の小道具ではないペットボトルの「質感」がダーッと迫ってきた感じがして、おーっと思った。ペットボトルって、こんな感じで増殖するよなあと、散らかった自分の部屋を思い出しながら思ったりした。中野さんには俳優ももっとやってほしいと思った。
●中野成樹演出ではないフランケンズの公演がもうすぐあって、そちらも興味はあるのだけど、上演される戯曲が鴻上尚史だというところに、観に行くことを躊躇させるものがある。最近では観るようになったけど、ぼくはずっと演劇が嫌いで、その原因はいろいろあるのだろうけど、おそらく直接的な原因は高校生の頃(小劇場ブームだった)に観た野田秀樹鴻上尚史で、特に鴻上尚史がぼくには耐え難い。しかしだからこそ、フランケンズが鴻上尚史を一体どんな風にやるのかということがすごく気になりもする。でも、ぼくは駄目な作品は身体的な反応として駄目で、観ていて本当にキツくなってしまうので、気が重くもある。