●昨日の日記で引用したラマールの、テクノロジーによって世界のすべてが囲い込まれて、いわば世界が「標的」化されているという現状認識とほぼ同じような認識をもちつつも、ミシェル・セールはそこからややニュアンスの異なる帰結を導き出しているのが興味深い。以下は、ラトゥールとの対談『解明 M.セールの世界』から引用。
《たしかにわれわれは、いまでは地球や宇宙の支配者になりました。しかしながら、自分自身を制御することはこの支配から逃れてしまっているように思われます。あらゆる事物を把握してはいるのですが、自分自身の行為は制御できないでいます。まるでわれわれの力そのものがわれわれ力から逃れてしまっているかのようです。》
《われわれがたちまち征服してしまうので、熟慮にもとづく意図はこの征服に追いつかないのです。実際、技術的進歩のスピードアップを観察してごらんなさい。なにかが可能だと知らされるや、競争か模倣か利益の垂直斜面に沿って、即刻どこかで実現されてしまい、それからすぐに望ましいものだとみなされて、そして翌朝には必要なものだと考えられてさえしまいます。もしそれが奪われたら、裁判所に訴えでることでしょう。》
《量の科学の後で、質の科学が始まりました。このことは話しましたね。それから諸関係の科学がやってきましたが、これも前に述べました。そしていまでは、われわれは明らかに、もろもろの在り方の、つまり、可能性、実在性、偶然性、必然性の科学に到達しているのです。したがって、もはや自然界の不可避(=必然性)のなかに生きているわけではなくて、一つの知のさまざまな在り方のうちに生きているのです。》
《つまりわれわれは、自分の子供たちの性別を選択しなければならなくなり、この子らが正常であることを生まれる以前に確かめておかなくてはならなくなり、自然界のバランスを保たねばならなくなり、多様な生命が地上に存在しているように段取りをつけてそれらの生命を保護していかなければならなくなる、というようなことなのです。同じ行為について話しているのに、そうとは気づかずに、《できる》という動詞から《しなければならない》という動詞に移行しているのですよ。なんという思いもよらぬ道徳の逆転なのでしょう。》
《どうして義務があるのか。それはわれわれが、局所的かつ総体的な実質的全存在の擁護者、維持管理者、あるいは推進者となるからなのです。物理的、客観的に。どうしてあれこれの責務を負っているのか。生命が生き延びるためです。生物学的には少なくともそうであり、それ以上ではありません。》
《われわれの行為の結果が、その行為が課す条件と合流しているのですから、義務は事実に等しくなります。われわれが生みだすもろもろの技術や対象が、われわれ自身を事実の集合体のうちの一部としてつくりだすからです。われわれが生んだ活動がわれわれの母となるからです。われわれは、自分たちでかなりゆっくりこね上げている地球と生命を介して、われわれ自身の最初の先祖、アダムとイブになるのです。》
文化(人工)と自然とがシームレスでつながるようになり、人間が世界そのものを「操作」することが可能となる時、「〜できる」は「〜しなければならない」へと変化し、逆説的な道徳への要請が生まれ、操作主体として「この世界のありよう」に対する責任が生じる。
神が失墜し、人間中心の世界が生まれるのが近代だとして、現代の科学とテクノロジーの進歩は、世界全体を標的化することで人間の能動性を神に近いところまで押し上げる。とはいえ、人間は自らの神のようでさえある能動性という力を「制御する力」は持たない。この時、「人はそれを制御する力(「世界に対して」それを適切に使用する力)を持たなければならない」という超越的な命令が、神のお告げのようにやってくる。この命令は、普遍的(大きな物語?)であり得るのかもしれない。もちろん、そのお告げは神からやってくるのではなく、(もし制御できなければ世界を滅ぼしてしまうという)「現代のテクノロジー的な条件」そのものからやってくるのだけど。