●『ダーリン・イン・ザ・フランキス』、最後まで観た。90年代ガイナックスアニメどころか、ここ三十年くらいの様々なフィクションから様々な要素や細部をこれでもかという感じで抜き出して取ってきて、(一応、整合的であるといえる形で)組み合わせている感じだった。物語も設定もイメージも既視感で溢れかえっているのだが、ここまで徹底していろいろとかき集めてくるならば、これはこれですごいと思った。
最近では珍しく、物語の(世界観の)構えの大きな作品で、小休止のような小さな結末がいくつか挟まって、その後に物語が再び始まり直すたびに、世界が組み替えられて、話のスケールが大きくなって、そのフレームの拡大それ自体が一種のどんでん返しのような効果になっている。
途中の段階では、思考を刺激されるものが多々あり、いろんなことを考えた(良い作品であるかどうかはともかく---寄せ集めたものに無理矢理に整合性をつけているので---組成が非常に複雑で、複雑な感情や思考を強いられる)のだけど、結末のつけかたがあまりおもしろくなかったので、「ここまでひっぱってきて結局これなの」となって、途中で考えたことをほぼ忘れてしまった。最後まで観る前に、走り書きのようなものでも、何か書いておけばよかった。良くも悪くも「結末をつけてしまう」ことの力というのはとても強いのだと改めて思った。
(とはいえ、結末を保留したままにしてしまえば、90年代ガイナックスと同じになってしまうだろう。様々なフィクションをどん欲に飲み込んでいるが、全体の感触としては「ナディア」と「トップ2」に近いと思った。あと、案外「ゼーガペイン」感も強い。)
途中で考えたことを思い出すためには、もう一度観直す必要があるのだけど、うーん、そこまでするかなあ、という感じだ。
最初に4話まで観た時点の感想で、「(性的なのは)あからさまなのに無自覚なふりをする白々しさを意図的に増幅させて演じている感じ」と書いたけど、この話はまさに、人類が性行為や生殖を失った時代に、少年、少女たちが、そうとは知らないまま、大人たちの性的な行為を代替的に行うことを、大人たちから強いられているという話だといえる。少年、少女たちは、あからさまに性的な行為を強いられながら、それを「性的である」と決して知ってはいけないという立場に置かれている(自覚が禁じられている)。既に不能になった大人たちが、その「性的であると同時にそれに無自覚であること」を利用することで、少年、少女たちの性的なものを搾取して生き延びている。そのような少年、少女たちが、自分自身で、自分たちのための性的な感情や、自分たちのための生殖行為を徐々に発見し、自分たちのものにしていく物語だと要約できる。
そのような主題に加えて、アンチATフィールド的な、人と人との感情が直接的にふれ合い、混じり合うことが可能だとすれば?、という主題と、幾原邦彦的な、「約束=運命(=トラウマ)」の主題、および(人類学的な人と熊との関係のような)「異種(異なるパースペクティブ)との交わりと断絶」という主題があって、これら複数の主題が重なったり拮抗したりしながら並行して走っている。そこに、この作品の複雑さがあった。
とはいえ、アンチATフィールド的主題と幾原的主題の重なりと拮抗という流れが、途中から失速し、ありきたりでおもしろくない方向の収束へと進んでしまう(精神と身体、普遍と個別という別の問題に置き換えられて、その「解決の安易なバージョン」に導かれてしまう)。ただ、少年、少女たちの性的な自覚の主題だけが、かろうじて最後まで維持されるという感じだ。この主題の「解決」もありきたりではあるが、主題が維持されるので、その過程は退屈ではないと思った。