●「note」に、かわさきIBM市民文化ギャラリーで2005年に行われた個展の図録の画像をアップしました。なお、この図録には早見尭さんによるテキストが掲載されているのですが、その部分はとりあえずカットしてあります。早見さんに連絡が取れて、了承していただけたら、改めて追加したいと思っています。
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/n4e4d68241471
●今期のアニメもそろそろ終わりに近づいている。ここまで来てもまだ面白く観られているのは、『一週間フレンズ。』と『極黒のブリュンヒルデ』というところだろうか。どちらもぼくの趣味ではないのだけど。
どちらも、忘れる少女と憶えている少年の話といえ、あるいは、忘れてしまう少女と忘れられてしまう少年の話とも言える。忘れる少女に対して憶えている少年が保護者的な位置にいるとも言えるのだけど、そもそも少年のことを完全に忘れてしまえば、その位置そのもの(というか、関係そのもの)が成り立たなくなる。
忘れてしまう不安と忘れられてしまう不安。忘れてしまう者は何を忘れたのかも忘れる。対して、忘れられる者は、忘れる者が忘れたことを憶えているから、単純に情報量という意味では忘れられる者の方が優位にたつ(忘れられる者は忘れる者が忘れた事を知っているだけでなく、忘れる者がそれを忘れたという事実も知っているのだから、自分がそれを知っていることを隠し、自分の都合にあわせて嘘をつくことさえ出来る)。故に、忘れられる者が忘れる者の記憶の一部を受け持ち、忘れる者に対して保護者的な位置につく。とはいえ、忘れられる者は「忘れられる」ことによって忘れる者にとっての(主観的)世界から消失してしまうかもしれず、自身の存在が、忘れる者の記憶のあり様に預けられており、その不確かな記憶に依存している。忘れる者は、認めたくないことを世界から消すことが出来る。
(物語を観る観客は、お話の大筋を知っているという点では忘れられる者の側にいるとも言えるが、けっこう細かいところを忘れてしまっているという点では、忘れる者の側にもいる。)
●『一週間フレンズ。』の少女は、ほぼすべての主要な登場人物から大切に扱われているが、『極黒のブリュンヒルデ』の少女たちは、主人公の少年以外のほぼ世界のすべてから軽く扱われている。この「少女の扱い」の違いが、二つの作品の(ちょうど裏表であるような)作風を分けているように思う。
●『極黒のブリュンヒルデ』は作品としてのクオリティが高いとはとても言えない。途中でもう観るのをやめようかとも思った。だがここまでくると、そのクオリティの低さこそが作品のリアルさに繋がっていると思うようになった。
この作品は、世界の矛盾や歪みから来る暴力的なものに対する防波堤として「少女」というイメージが使われるという一連の作品の流れにある。今期では『ブラック・ブレッド』とかもそうだし、「まど☆マギ」などもそうなのだが、少女というイメージが、世界の最も過酷な前線に立ち、暴力を直に受け止めることで、「世界が救われる」的なイメージの話だ。そこで少女は、受苦的な存在であることによってある種の神的な輝きを持つ、ということになっている。
でも、「極黒の…」がリアルなのは、この少女たちが徹底して軽く使われていて、どのような「輝き」も付与されていないところだ。彼女たちは、都合よく適当に使い捨てられるイメージ以上のものを何ももたない。
この作品で彼女たちは、「お話」のレベルで陰惨で過酷な位置に立たされ、しかもきわめて軽く扱われているだけではなく、キャラのつくりとしても、筋の運びや組み立てとしても、作品のクオリティとしても、きわめて軽く、ぞんざいに扱われているようにみえる。彼女たちは、適当に紋切り型を寄せ集めて切り貼りしただけみたいにして作られているようにしかみえないし、デザインも作画も、そして与えられた性格も、どれをとってもぞんざいに作られているように見える(主人公の少女が「♪まったくなんにも気にしなーい」とか歌い出すと観ていて脱力するし、関西弁の強気キャラの女の子の痛々しさも半端なくて苦笑するしかない)。彼女たちは、物語の世界の設定のなかで軽く扱われているだけでなく、(こういうことを言うと怒られるかもしれないけど)製作者たちからすらも、軽く扱われているように見えてしまう。観ていて、いろんな意味で、様々なレベルで、「酷い」と何度も思ってしまう。そこに何とも言えない生々しさもあるのだが。
そして、そのようないかにも安っぽくて薄っぺらな存在である(そして、主人公の少年以外に誰からもまともに扱われることのない)彼女たちが、それでも、互いに協力し合って自分たちが生きてゆける「場」をなんとか作ろうとしているのが感動的なのだと思う。彼女たちは魔女と呼ばれていて、何かしらの大きな目的(陰謀)のために「大人の都合」で製造されたようなのだが、その目的から逃走し、(自分たちを軽く扱う)「世界のため」ではなく、あくまで自分たちのために、自分たちが生き続けるために集結している。
彼女たちは、少女というイメージを背負って、世界のために犠牲になったりすることを拒否し、あくまで、安っぽくて痛々しいダメなキャラとして生きようとする。しかし「この世界」は、どうもそれを許さないらしい、というところが、なんとも陰惨で、リアルなのだった。