●昨日の日記を書いていてなんとなく思ったのだけど(とはいえ、これはやや図式的すぎる考えかもしれないのだが)、ぼくが去年連載していた「虚構世界はなぜ必要か?」で考えていたのが、昨日の日記でいう《人にとっての共同的な「物語(虚構)」の抜き差しならない根本的な不可避性と必然性》ということで、一方、これから「幽体の芸術論」で考えようとしているのは、《その限界地点(フィクションのリミット)》の方で、つまり、フィクションがそこから立ち上がり、またそのただなかへと消えていくような地点についてなのではないか、と。前者は、地からたちあがる図についてということであり、後者は、図から脱去する地が、その「図から脱去」によってなにを示しているのか、に触れようとするということではないか。
(ただ、こう言うだけならば、まさに「否定神学」的でしかないので、そうならないための様々な工夫ややり方が必要で、それがフォーマリズムということなのだと思う。)
●けっきょく、ネットフリックスに入っていままで一番長時間観ているのは、アニメ『赤毛のアン』だったりする。原作は読んでいないのだけど、昔、このアニメがすごく好きだったなあと思い出しながら観ているし、今観てもおもしろいというか、すごく胸に刺さる感じがある。
宮崎駿は「アンは嫌いだ」と言ったらしいけど(ウィキペディアより)、それもよくわかる。アンは、内省的で空想好きで、しかしお喋りで、その「お喋り」も、自己主張が強いというのではなく、「本当はAでありたいのだけど、それは無理だからBで我慢するけど、そのBをまるでCであるかのように想像してみると、世界はずいぶん楽しいものに変わる」というような益のない空想を、聞かれてもいないのに延々と喋りつづける。
宮崎駿の作品にはこのような少年、少女は登場しない。彼、彼女は、口に出すよりも早く行動に移し、そもそも空想それ自体を楽しむというような浮ついた楽しみはもたない。彼や彼女は常に実践的であり、空想するのではなく自然や動物そのものと直接対話し(アンは自然を別の何かに「見立て」るのだが)、空想などする暇があれば労働を行い、現実へ対応を優先する。夢(それは浮ついた空想ではなく強い信念だ)への指向を内にもつが、それは凛々しい行動としてあらわれ、敵への抵抗や怒りは無言や不服従によって(言葉ではなく)表現される。
なにより、アンの顔の特徴である額の大きさ(前へと突き出した額)は、宮崎作品では、ムスカカリオストロ侯爵のような、頭でっかちで独善的な独裁者(敵)の特徴だ。宮崎駿の世界では、からだを使う(労働する)よりも言葉を使う(理屈を言う)ことを優先させる者は「悪」へと堕ちることになる。
(『もののけ姫』以降はそこまで単純ではないけど、そういう「好み」が抜きがたくあるとは思う。)
ナウシカやシータやラナ、コナンやパズーの行動は、現状を変えようとするものだが、アンの空想やお喋りは、たんに垂れ流されるだけでどこへも着地せず、ただ自分の感情と現状とに折り合いをつけるために発動されるものだ。アンは姫でも、特別な力や役割を持つ者でもなく、無力な子供であり、孤児であり、故に現状を受け入れる以外に選択はなく、空想やお喋りはそのために切迫した必要性があるものである。アンの空想やお喋りは世界を変えないが、彼女が彼女として生きるために必須のものである。
(アンは、保守的な---ヴィクトリア朝の名残りのある、あるいはピューリタン的な---マリラたちの家庭や共同体の価値観のなかで「変わり者」ではあっても、それなりに上手く収まり、周囲の者たちの心を柔らかくさせ、結局は愛されるので、価値観そのものを揺るがせるほど過激ではない。)
宮崎駿がアンを嫌いなのは、自分自身がパズーやナウシカよりも実際にはアンに似ていると知っているからだと思う。ナウシカはフィクションの登場人物であるが、アンは、フィクションの登場人物であると同時に、フィクションを必要とする、内向的で無力なわたしでありあなたでもある。
高畑勲片渕須直にはできても、おそらく宮崎駿にはそのようなキャラクターはつくるのは難しいのだと思う(『風立ちぬ』でそれをやろうとしているのかもしれないけど)。