●キャンバス(F15)に、モデリングペースト、水彩絵の具。





●『もののけ姫』。改めて、これはすごいな、と思った。ただ、とんでもなくすごいことは確かなのだけど、いまひとつ面白くない。とはいえ、いまひとつ面白くないということをもって否定できるような、そんな程度のすごさの作品ではない、というくらいのすごさがある。これだけのことをやり切れる人はきっと他にはいないし、これだけのものに対して文句をつけられる人もいない。ただただ、圧倒される。でも、やはり、いまひとつ面白くないことは事実だ、ということを付け加えたくはなる。
(ここで、「いまひとつ面白くない」というのは、例えばクオリティが低いとか、あそこの演出がいまいちとか、そのようなことではなくて、あくまで、いつものあの「のってくる」感じが希薄だ、というような、主観的な印象の問題だし、それこそが重要だと思うのだ。)
とんでもなく大きな風呂敷を広げて、その「広げた」分に十分見合うだけの内実をもつものを、細部の隅々に至るまで妥協することなくきっちりと形にしている。これだけ複雑な主題を、二時間十分程度の長さ、そして娯楽映画として受け入れられる形にきっちり加工していて、その加工上の必要による「ごまかし」を感じさせることがない。さらに、作品が主題の展開には決して還元されることがないことを示す、非常に高度な細部の充実がある(つまり、「頭」でっかち---コンセプト先行---で「手」がおろそかになっているような作品ではない)。まさに、力と技とがどちらも充実しているような時期の巨匠にしか可能ではない仕事なのだと思う。この作品と(主題も含めたいろんな意味で)比較し得るものは『七人の侍』くらいではないかとも思う。普通に考えれば文句のつけようがないのだけど、なのに何故かいまひとつ面白くない。
とはいえ、「ナウシカ」や「ラピュタ」や「トトロ」みたいなものをもう一度繰り返すことをしたくないのならば、ここでこれをきっちりとやり切らなければ、ここまで踏み込まなければならないのだという必然性(あるいは決意)のようなものは、作品中の至るところからビシビシ感じられる。それに対して、強い感動と尊敬を感じる。それは並大抵のものではない(それを、多くの人は「賢しらな…」と感じたかもしれないし、公開当時、ぼくもそのように感じていたのだが…)。
確かにこの作品は「いまひとつ面白くない」かもしれないが、それでもこれを避けて通ることは出来ない、と(勿論、作者はこれを「いまひとつ面白くない」などとは決して思っていないはずで、「ここでこれをやらなければならない」という必然性とはつまり、「これこそが面白いはずだ」という確信であるはずなのだが)。だから、いまひとつ面白くないとは言っているけど、心を強く揺すぶられているし、否定する気持ちはない。
この作品はとても立派な作品であるが、立派であることよって「宮崎駿の作品でしかありえない面白さ」のようなものが希薄であると言えると思うのだけど(繰り返すけど、それはアニメーション作品としてのクオリティがどうとかいうことではなく、あくまで、「来る」か「来ない」かといった主観的な印象であり、価値観であり、判断である)、しかし、ここでこの作品があるからこそ、ほぼ「宮崎駿の作品でしかありえない面白さ」だけが極端に凝縮されて成り立っているような「千と千尋」を、この次につくることができたのだとも言える。だから、「もののけ」と「千と千尋」とは対と言うか、相補的な作品であると言えるかもしれない(それは、結果としてそうなったということであって、前もってそのように構想されていたわけではないことは重要だと思うけど)。そして、この二本があるからこそ、宮崎駿はここで終わらなかった(終われなかった)とも言えるのではないか。
●ここでは主題に深く立ち入ることはしないけど、一つ言えるのは、この作品で山の神々と対立しているのは武士でも農民でもなくて、そこから排除された、山に詳しく、山と共に暮らし、山によって保護されてきたような人々なのだ(タタラ場の人たちも、赤い唐笠の集団も、地走りと呼ばれる者たちも)。タタラ場の者たちは近代主義者でありコミュニストでもあろう。彼らはテクノロジーの力を背景にした豊かさによって、自らのコミュニティ内で例えば「平等」を---つまり外の世界から自律した価値観を---実現し、革命(国崩し)を構想している。だからこそ彼らは山の神を殺す必要がある。ここで山の神々はむしろ権力(既得権)の側にさえいるようにみえる。このことだけからも、この作品が単純にエコロジー万歳というようなものではないことが分かる(勿論、山の神を殺すのは愚かな行為であるから、近代=コミュニズム万歳でもないが、例えばそれによってはじめて「平等」が可能になるのだということは示される)。そして作品の最後でアシタカは、サンと共に山に入るのでもなく、故郷に帰るのでさえなく、タタラ場の者たちと行動を共にして未来を模索することを決める。アシタカが帰らなければ、おそらく故郷は遠くない未来に滅びてしまうだろう。このような図式はまさに近代そのものであり、もはや新鮮味はないと言えるけど(だからこそこの作品は「いまひとつ面白くない」のかもしれない)、少なくともこの物語では、悪者も正義の味方もいなくて、ただ、立場の違いによる抗争とその調停(調停の困難)だけがあるということは徹底している。人々と同じくらい神々も愚かであるとも言える(神々は、「ナウシカ」のオームほどにも賢くないし、アシタカにもサンにもナウシカほどの力はない)。皆等しく愚かで、誰が悪いということも示されないし、どこに希望があるということも示されない。最悪のカタストロフはなんとか避けられたが、問題は何も解決していない。このことは本当に徹底されている。おそらくこの時点での宮崎駿は、これほどの莫大な熱量をかけてまで、一度このことを徹底してみる必要があったのだと思う。ただ、神を殺せば上手くいくという考えが間違いであったことだけが示される。
もののけ姫(サン)が、最初にタタラ場を襲う場面のアクションがとても面白かった。この場面でサンはまだ「人」ではなく、人の形をしているけど人とは言えない不思議な動き方をする。その後すぐ、アシタカと交流することで、サンは普通に人っぽくなってしまうのだけど。あと、アシタカが矢を放つと、放たれたものの首がもげてぴゅっと飛ぶ、という描写がやけに面白かった。