●『しんぼる』(松本人志)をDVDで。驚いた。途中はけっこう退屈していて、どこで観るのをやめようか、リモコンの停止のボタンを押すタイミングをはかりながら観ているという感じだったのだが、ふたつの世界がふいに繋がる瞬間が素晴らしくて、ああ、ここまで観続けていてよかったと思った。極端な言い方をすれば、たった一つのネタを成立させるために90分の映画がある、90分の映画全体がたった一つのネタに奉仕している、というような作品なのだが(少なくともぼくにとってはそうなのだが)、しかしその一つのネタの衝撃がすごいので、これはアリなんじゃないかと思った。その瞬間、この作品は「真実」としかいいようのない何かを掴んだのではないか。いまひとつ締まりがなかった試合に見えていたものが、たった一発のめざましいパンチによってその様相がガラッとかわった、というような。しかも、そのめざましいパンチが、首がびろーんと伸びるという、なんとも間抜けなイメージとしてあらわれているところも素晴らしい。この映画は、延びた首がゴングをカンカン鳴らしているところで終わっても良い(事実上そこで完結していると思う)作品で、それ以降の展開はたんにひろげた風呂敷を収めようとしているだけだと思う。
そもそも、「しんぽる」を押すことと、何かしらの「もの」が出現することとの間には、何の因果関係も証明されていない。本来無関係であるはずの、行為と結果との関係は、仮のものとしてたんに経験的に与えられているだけだ。つまり、何の理由も根拠も保証もないままで、それを押せば、何かが現れるとせよ、という前提が(時間、空間的な同期によって)成り立っているかのように見えているだけだ(原因-結果という関係は、行為者と観客の経験の内部で成り立っているだけだ、とも言える)。しかし、そのように、行為と結果との関係が「いい加減なまま」で受け入れられているからこそ、切り離された二つの世界に唐突に通路が開けるという奇跡的な出来事が可能となる地平が準備される(この奇跡の存在を知っているのは、両方の世界を同時に観ている、そのようにモンタージュされた映像を観ている、観客だけなのだ、それはつまり、奇跡は観客の視線-経験によって引き起こされている、とも言えるということだ)。この映画がはじまってから延々とつづく、やや退屈とも思える時間は、そのような地平が準備され、整えられるのに必要な(まさしく修行の)時間なのだ。そして奇跡は、思ってもいないようなイメージとともに、突然やってくるのだった。