『悶絶!! どんでん返し』(神代辰巳)をDVDで

●『悶絶!! どんでん返し』(神代辰巳)をDVDで。とにかく、この映画は何度観ても、観始めてしばらくは、とても強い不快感を感じ続けることになる。登場人物の誰一人として、まともに人間として扱われていない。というか、彼らは誰も彼もが徹底して自己中心的で、他人の気持ちとか痛みとか立場とか一切考えない。あるいは、自分の長いスパンでの利害すらも考えない。ただ、その場限りで、ひたすら安直に暴力的で、しかも、その暴力に裏に何かが隠されているという厚みもない。
彼らは、自分の欲望にひたすら忠実であるというわけでもない。とにかくこの映画の人物たちは徹底して上下関係にしか興味がない。その場の状況次第で、自分が少しでも上位に立ったと思った瞬間、そこにいる下位の者にえげつなく暴力をふるいはじめるのだ(さっきまでさんざん自分が暴力を受けていたのにもかかわらず)。そのえげつなさ、その躊躇のなさは徹底している。そしてその上下関係は常に状況によって変化する。例えば、ホステスの部屋にまんまと上がり込んだエリートサラリーマンは彼女を無理矢理に犯そうとするのだが、その部屋にはやくざのヒモがいて、形勢は逆転して、サラリーマンは逆にやくざに無理矢理にオカマを掘られてしまう。やくざの出現によって優位に立ったホステスはサラリーマンをバカにするように扱うのだが、やくざがサラリーマンとのセックスに味をしめ、二人の仲が親密になることで、今度はホステスがサラリーマンからゴミのように扱われる。三人のスケバンたちのグループでリーダー格だった女は、花電車が一人だけ上手く出来ないことからその地位は失墜し、彼女のことをもともと良く思っていなかった(しかしアニキの手前それを態度に出せなかった)やくざの弟分から過剰な暴力を受ける。やくざの弟分はしかし、花電車の特訓を通じてスケバンのリーダー格と恋愛関係になり、そのことで、やくざと共に彼女に暴力を加える側から、彼女とともにやくざから暴力を受ける側へと地位を失墜させる。エリートサラリーマンは、やくざにおかまを掘られて「目覚めて」しまって、女装してオカマとなることで社会的な地位から脱落するが、やくざたちの人間関係のなかでは女王様のような地位を得る。サラリーマンは、その上位の位置に満足し、彼を訪ねてきた元の婚約者に酷い仕打ちをして追い返す。しかしいい気になっているサラリーマンは、やくざが不始末をやらかして逃げる時にホステスだけをつれてゆくことで、たった一人とりのこされる。
とにかく、この映画の登場人物たちには、他者への配慮も、自身に固有の自律した欲望もなく、ただ、状況の変化を察して、自分に優位な状況であれば増長して徹底して暴力的にふるまい、不利になればひたすら暴力を受けるしかなくなるという、単調などんでん返しがあるだけだ。脳みそのひとかけらもないと言うしかない。ここにいるのはひたすら構造に従順な人物たちばかりであり、しかもその構造とはきわめて単純で単調な、ニュアンスも糞もない上下関係(優劣関係)でしかない。エリートサラリーマンが男性とのセックスや女装に目覚めるのは、彼のもともとの欲望でも、秩序立った社会への反発でもなく、たんに、たまたまある関係の構造に巻き込まれた結果に過ぎないだろう。このことは観客を不快にするのだが、しかしその徹底ぶりにおいて、ある瞬間から不快のリミットが振り切れ、すげえと思いつつ、事態のあまりの展開をただ呆然と見守ることになる。
この映画にあるのは、欲望やエロスの、秩序や抑制からの解放などではないし、庶民のバイタリティの発露でもない。ただひたすらな、自律的な構造の作動だけがあるのであり、あらゆる人物は、たんなる「モノ」として、構造に奉仕する媒介でしかない。そして、容赦なくそれに徹していることが、この映画の凄みとなっている。観客は、笑うことも、しんみりすることも、深刻になることも出来ず、不快だと拒否することさえも出来ず、ただ、呆然とすることだけが許される。