『天然コケッコー』(山下敦弘)をDVDで

●本のために、編集者と打ち合わせ。再校ゲラをどーんと受け取る。図版の使用に関して様々な問題があることが分る。特に、マティスの図版は、著作権を管理している協会がうるさいので、その使用はほとんど絶望的とのこと。えーっ、という感じ。そんなことマティスが望むはずないじゃんと思う。
●『天然コケッコー』(山下敦弘)をDVDで。山下敦弘は好きなのだが、この映画に関してはなんか嫌な予感がして避けていたのだったが、その予感は完全に間違っていた。山下敦弘すげーっ、と思った。前作に比べも圧倒的に上手くなっている。これはただ事ではないんじゃないかというくらい、あらゆる場面が充実している。
山下敦弘の作家的な野心は、要するに、与えられた題材のなかで、描写を徹底して充実させ、磨き上げるということに限定されているのだと思う。この映画も、カメラの位置、カットがかわるタイミング、俳優の仕草の組み立て方など、いちいちが凄くて、ほぼ二時間の間じゅうずっと、そうくるのか、へえーっ、おおっ、すげー、と、一瞬の隙もなく、ずっと感心ばかりしていた。
原作は知らないのだが、お話としては、勘弁してほしいと思うくらいにベタな話で、背筋がムズムズして、こういうのはかなり苦手なのだけど、そのベタな話のベタなツボをきちんと押さえつつも、ベタなまま、描写の充実で映画を埋め尽くす事で、それをすごいものに変質させている。八十年代からある、男性の監督が撮ったいわゆるアイドル映画というのは、女性の主人公を魅力的に見せることに力を注いではいても、その傍らにいる男性の登場人物はいまひとつないがしろにされる傾向があるように思うのだが、この映画では夏帆を魅力的に撮るのと同じくらい岡田将生を魅力的に撮ることに配慮されている。普通に考えれば、たんにすかした嫌なガキに過ぎない「大沢くん」が、なぜか格好良く見えてしまうという詐術がここにはある。この映画は、男の子の観客は夏帆に注目して観ることができるのと同時に、女の子の観客は岡田将生に注目して観ることが出来るようになっている。大沢くんは、あり得ない王子様であることと、リアルな男の子であることの絶妙なブレンドによって成り立っていて(つまりこれは、「そよ」からはそう見えているということで)、この振幅によって捉えどころがなく(そういう絶妙な演出がなされていて)、それによってさらに魅力的に見えるわけで、これ以上リアルになると観客は幻滅するだろうし、これ以上あり得ない王子様でありば、観客は白けるだろう。とはいえ、女の子の観客の多くが夏帆に軽くムカつくであろうことと同様に、男の子の観客の多くは岡田将生に軽くムカつくことにはなるだろう。
褒めているのか貶しているのか分らないような書き方になってしまっているけど、繰り返しになるが、このようなベタなお話を、描写の充実で埋め尽くすことによって、ベタであると同時にベタではないという、不思議なものにしているところが面白いのだ。実際、こんなに充実した描写の出来る監督が、他にどこにいるだろうかと思う。決して説明的ではないのに分りやすく、大勢の人物を同時に動かしながら、自然に主役の二人に焦点が合うようになっている。大勢の人物をちゃがちゃ動かしつつ配置して、映画のなかで生かすことがこんなに上手い監督が他にいるだろうかとも思う。ちょっとおおげさかもしれないのだが、山下敦弘は、ホウ・シャオシェンと並び賞されてもいいのではないかとすら思った。
大沢があらわれる前の学校のドタバタが良い(小さな女の子が机を運んでるところとか)。冒頭近くの、みんなで海にゆく一連のシーンで、人が身投げした場所で、一番小さい子が、いないはずの人が見えるといい、みんなが一斉に逃げ出す時のタイミング(山下敦弘はホラーを撮っても絶対上手いはず)、その後、夏帆がフレームの隅っこで転ぶ時のフレーミング(この監督はフレームの隅の使い方がすごく上手い)、海からの帰り道で、大沢が、そよと二人っきりになりたかったと言う場面で、背景が真っ暗で、後からそれがトンネルのなかだったことが分ること、大沢が持っていた一輪の花が、身投げした死者にたむけられるものであったことが後から分ること、等々、このあたりの一連の展開で、ぼくはこの映画がすごいに違いないと確信した。大沢と二人きっきりになりたいがために、一番年下の女の子の「おしっこ」という言葉を無視してしまうところから、お祭りで一人取り残されて泣き出してしまう辺りまでの、そよの、恋愛感情によって集団から微妙に浮いてしまう感触と、その周囲に漂ううっすらとした嫉妬と軽いいじわるな感情。中学生になったそよの弟が制服で登校するところを、縁側から父と祖父がニヤニヤして見ている場面の感じ。そよと大沢の関係に配慮するようになる、弟の成長。修学旅行が東京に決まったという場面のすぐ後に、雑踏のなかでのそよの足もとのカット(微妙に内股)で、その東京に対する距離感を表現してしまうこと(こんなに上手に雑踏を撮ることの出来る監督はそうはいない)。そよと大沢が二人で高校の見学に行く場面で、そよがする高校の説明を大沢がまったく聞いていないことによって、大沢の何を考えているかわからないミステリアスな感じを過剰にならずに自然に表現していること。大沢が東京の高校を受験するのをやめることを教師に告げに職員室に行く場面で、観客のほとんどは、そういう展開を既に予想していて、その分り切った場面をどう見せるのかと見守っている時に、二つのカットでそれをさらっとはぐらかす呼吸。大沢の坊主頭を、どのようなタイミングでどう見せるのだろうと思っていると、最後まで坊主にはならずに、なんだ坊主になんないのかよ、と思っていると、最後の最後でさらっとそれを見せること。そして、最後の、教室でのシーンは特に素晴らしい。黒板へのキスとか、すごくエロい。等々、数えあげればきりがないくらい、一つ一つの描写が充実している。
ただ、子供たちの描き方が素晴らしい反面、大人が弱くて、そよの父親である佐藤浩市の存在が弱いし、そよの母親と大沢の母親の緊張関係の描写も弱いと思う。そしてもっとも失敗していると思うのは、大沢の母親が最初に登場するトラックの荷台のカットで、大沢の母が、「お前は夏木マリか」と思うような、紋切り型の「いかにも都会から出戻ってきた女」っぽく撮られているところだと思う。逆に言えば、そのくらいしか文句をつけるところがない。