●『天然コケッコー』(山下敦弘)をDVDで観直していて、ああ、これは『松ケ根乱射事件』と裏表になっているのだなあと思った。つまり、同じ時、同じ地域で、『天然コケッコー』の話と『松ケ根乱射事件』の話とが同時進行していたとしてもちっともおかしくない。『天然コケッコー』の幸福な世界は、一歩まちがえれば『松ケ根乱射事件』の世界へとひっくり返ってしまうことも全然あり得る。実際、主人公の「そよ」は、もし大沢が引っ越してこなかったとしたら、自分がとても愛していると思っているこの土地を、二、三年後には「耐えられない」と感じるようになっているのかもしれない。いや、意識として「耐えられない」と感じることさえ抑圧して、さらによじれた屈折を抱えなければならなかったかもしれない。
天然コケッコー』には、そのようなしるしがいろいろ埋め込まれている。そよの父と大沢の母との関係や、五年前にあったという飛び降りは、一見のどかに見えるこの地方に強い閉鎖性が刻印されているのを感じさせる。あるいは、そよと、伊吹や篤子との関係にしても、現在は良好だとしても、いつよじれてもおかしくはない緊張をはらんでいる。あるいは、もう社会人であるにもかかわらず中学二年のそよを追いかけているシゲちゃんという人物の「おかしさ」を、土地の人はまったく気づいてさえいないというのも異常なことに思われる。そよとシゲちゃんを強引にくっつけようとする伊吹に無意識の悪意を感じないわけにはいかない。ここには、『松ケ根乱射事件』や『ツイン・ピークス』のような世界にすぐにでも反転しかねないような要素が(空気が)あるとさえ言える。
そんななかで大沢の存在が救いとなるのは、このような地方の閉鎖性に対して、きわめてセンシティブで適切な対応をみせるからだ。そよの、伊吹や篤子に対する無神経さをさりげなく指摘したり、そよが、そう感じているのは明らかなのにそれを意識することを抑圧している「シゲちゃんへの嫌悪」を堂々と表明してみせたり出来るのは、外からきた大沢だけなのだ。「シゲちゃんは親切で言ってるんだ」と大沢に抗議しながらも、大沢がシゲちゃんに不快感を表明することが(そのような態度があり得ることを示されることが)そよにとってどれだけ救いであるだろうかと思う(そよがこの土地の内部にいる以上、シゲちゃんへの嫌悪は意識されてはならず、大沢によってそれが代替されなければその感情の出口が塞がれてしまう)。大沢は、都会的な繊細さで、この地方の人たちが自覚さえしていない関係の絡まりや緊張を巧みに解いたり緩めたりする。もし大沢がいなければ、数年後のそよはローラ・パーマーになっているのかもしれない。あるいは、『リアリズムの宿』の女のように家出娘になる必要があったかもしれない。
しかしそれはあくまでそよの側からみた話で、大沢の側からすれば、まだ中学生でありながら過度にクールであることを要求され、そのような地方に縛り付けられることはおおきな苦痛でありつよい緊張でもあるはずなのだ。だから、大沢が東京の高校に行きたいと思うのは当然のことで、それを断念するというのは、いかに大きな決断であるのかと思う。
それはともかく、『天然コケッコー』という映画が優れているのは、一方で、非現実的なくらいの幸福な世界を創り出しつつ、同時に、その幸福が内部に、いつ崩れ、反転してしまったとしてもおかしくない諸要素を抱えるなかで、あやうくぎりぎりで成り立っているのだという緊張もまた、予感や徴候として纏いつかせている点にあると思う。おそらくこの緊張(あやうさ)は、主に「そよ」を演じる夏帆の存在によって表現されているように思う。
逆に言えば、これだけあやうい諸要素のなかで、こんなに幸福な世界を出現させ得ているというのがすごい、と。ある状態がそのようなものとして成立している、その組成の複雑さと、それがそうであることの稀有さ、そしてその状態の背後にそうではなかったかもしれない複数の可能性が織り込まれていることとを、同時に含ませている。描写力というのは、そういうことのなかも。だからこそこの幸福がリアルであり、貴重なものとして浮かび上がるのだと思う。