2021-10-08

●大学の講義がはじまっているのだが、ぼくは、大学の様子も知らず、学生たちの雰囲気も知らず(一人として学生を目の前にすることなく)、学生たちの反応も分からないまま、一人、遠く離れた部屋にいて、ただ、時間が来たらPCの前で喋りはじめ、時間が来たら喋り終わるというだけで、手応えというものがなく、これでホントにいいのか、よくないとしたら、よくないということをどうやって知ればいいのか、と不安になってくるのだが、とはいえ、基本的に引きこもりで、人と接するのも苦手なので、実際に大学に出向いて、学生を前にして講義するより、こちらの方が自分には向いているのかもしれないとも思う(Zoom使いがもう少し手際よくなれば)。

●デュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』についての授業のためのスライドが、どう考えても講義一回分の時間をまるまる使わないと収まらないものになってしまった。これでも、絞れるだけ絞って、この小説の特異性を感じられるために最低限必要だと思われる四つの場面に絞っているのだが。

(ならば、ジェイン・ボウルズをどこにもっていけばいいのか…)

ジェイン・ボウルズとデュラスとを講義の同じ回に考えたのは、どちらも、「存在(狂気)」を基盤とした小説で、それは「意味(差異)」を基盤とした小説とはあり方が違っているので、読み方もちょっと違うということを示したかったから。これでは正確な言い方ではないか…。意味(差異)の構築によって存在(狂気)を覆い尽くそうとする小説と、存在(狂気)の上に不安定に意味(差異)が乗っかっている小説との違い、というべきか。ジェイン・ボウルズとデュラスは後者で、前者と言えるのは、たとえばクロソウスキーとか。

すごく雑な言い方になるが、「存在」には意味がない(「存在」は「意味」によって把捉できない)ので、「存在」は無意味や穴や空隙としてしか表現できない。その、無意味や穴の外堀を意味(差異)によって埋めていくことで、逆説的(ネガティブ)に無意味や穴の在処を示そうとするか、あるいは比喩的な「深み」によって表現しようとするのが、普通のやり方というか、多くの作品のあり様だと思うのだが、そうではなく、無意味そのものが直に露呈してしまっていて、そのまわりに辛うじて積み木のような不安定な意味(差異)が仮構されているというのが、ジェイン・ボウルズやデュラスの小説のあり様だと思われる(とはいえ、デュラスの構築はとても複雑だ)。

たとえば、『ロル・V・シュタインの歓喜』を、三角関係、不倫、覗き、みたいな、そういう「欲望の構造」の小説(「欲望とは他者の欲望である」みたいな)として読んでしまうと、とても薄っぺらなものにみえてしまう。たしかにこの小説は、ロル、マイケル、アンヌ=マリの三人の関係が、後に、ロル、ジャック、タチアナの三人において再演されるという形をとっているし、ひとまずはそういうものとして読むしかないのだが(とはいえ、三人の関係は三角関係ではない)、ロルという人物は、そのような欲望の構造を操作する「主体」としては、底が抜けすぎている。むしろこの「底が抜けている」ということの方が関係の構造よりも重要で、欲望の構造はこの「抜けた底」を露呈させるために仮構されたものだとみた方がよいと思われる。

ロルが組織しようと画策する「欲望の構造」は、「私の快楽」を保証する安定した構造でもないし、「決してそこに到達できない」ことによって機能する(馬の鼻先のニンジンの)ような構造でもない。到達したらどうなるか分からないその未知の構造にロルは到達しようとする。いや、存在には意味がないとすれば、そこに到達すると無意味そのもの、穴そのものになるしかなく、それは通常は狂気(意味・差異の破綻)と呼ばれる状態であり、つまり到達しても破綻しか待っていないと思われる。しかしそれこそが求められる「未知」の状態なのだ(「不可能なもの」ではなく、あくまで「到達可能な未知のもの」としての「存在=差異の破綻」だろう)。