⚫︎『セザンヌの犬』の感想として樫村晴香さんから頂いた手紙の中で、(正確な引用ではなく要約です)「カフカやデュラスでさえ、作中に作者と作品の関係を示すような隠喩的な部分があるが、『セザンヌの犬』にはそれがなく、故に、それを読むことは「快適とはいいがたく」とても「疲れさせられる」ことだ」というようにことが書かれていた(セザンヌの絵を観ることも同様に、快適ではなく、疲れさせられる、と)。この点こそが、『セザンヌの犬』に収録されている小説たちを書く上で自覚的に「最も禁欲的」だった部分で、まさに「作者と作品の関係」をわかりやすく要約するようなメタ的細部だけは決して書き込むまいと思っていた(作品全体の構造として、作者と作品の関係は示されていると思うが)。しかしだからこそ、いわゆる「小説読み」の人からはなかなか理解が得られないだろうとも思っていた。無意味に複雑で、無意味に技巧的で、結局何がやりたいのかわからないというような反応になるのは、まあ仕方がない、と。
小鷹研理さんが書いてくださっている通り、この小説集において「あなた(あるいは「姉」)」は、そのまま「わたし」と代入しても差し支えないものとしてある。「あなた」とは、「半自己」であり「半他者」であって、この小説集の世界はすべて「わたしの夢の中」とも言える。しかしこの「わたしの夢」は、その境界部分で外部と接しており、外部からくる衝撃は、夢の内部に、夢の文法に翻訳された形で影響を与える(夢を見ている「わたしの身体」もまた「わたしの夢」の外部である)。そのような外部からの揺らぎが、まずは「あなた」の気配となるだろう。この小説たちはまずは、夢と現実(外部)との境界線上を、そのどちらにも転ばないように綱渡り的に進んでいく。
だがそれは一面的なことで、もう一つの面として、「世界の土台」のありようとして、「わたしに夢見られたあなた」と「あなたに夢見られたわたし」の間の闘争状態がある(この点も小鷹さんは指摘している)。これは二者択一的であると同時に相互包摂的でもあるので「胡蝶の夢」(孔子が蝶の夢を見ているのか / 蝶が孔子の夢を見ているのか)とは違うことに注意されたい。「わたしに夢見られたあなた」の世界に、不意に差し込まれてくる「あなたに夢見られたわたし」の世界は、端的に「外部(他者)」であるだろう。小鷹さんの指摘の通り、この小説たちでは「わたし」と「あなた」との直接的な対面が避けられる傾向にある。それは、ここでの「あなた」は、「わたしに夢見られたあなた」であると同時に「わたしを夢見ているあなた」でもあり、前者は外部(他者)の気配であるが、後者は「わたしの夢」の世界を根本から転倒させる外部(他者)そのものであるからだろうと思う。
(追記。「わたしが夢見たあなた」と「あなたが夢見たわたし」という二項関係にとりあえずはなっているが、ここで「あなた」が特権的な唯一の他者でないことは重要。「「ふたつの入り口」が与えられたとせよ」で「あなた」と呼ばれる人物は明らかに一人ではないし、もしかしたら「わたし」さえも一人ではない。「ライオンは寝ている」で「あなた」に相当する存在は「姉」の他に「兄」もにいる…等々。二項ではなく、多項による相互的入れ子構造になっている。表紙の絵の構造がそうなっているように。)
「わたしの世界」の中で、わたしはあなた(他者)とは出会えない。あなた(他者)との出会いは、わたしにとっては「わたしの世界の部分的 / 根本的な描き直し、あるいは転倒」として現れるしかない。逆に言えば、わたしは、「わたしの根本的な描き直し(「それ以前の自分」への不可逆性)」を通じてあなた(他者)と出会っている(「わたし」がミドリガメになっていたりする)。あえて雑にわかりやすく説明すると、そんな感じになっていると思う。以下は、「新潮」で山下澄人さんが引用してくれた、「左利きと右利きの耳」の部分。
《三階の教室のわたしが目を覚ましそうになったことで意識は暗渠からすうーっと上昇していき、その上へ引っ張られる力でわたしは諸々を持ち堪えられなくなり、わたしが下支えしていたものたちすべてが支えを失い、瓦解して崩れて消えていき、だからわたしは、新しい環境の中でまったく別のわたしとして目を覚す。》