●この本、気になる。『人文死生学宣言 私の死の謎』(渡辺恒夫/三浦俊彦/新山喜嗣・編著 重久俊夫/蛭川立・著)。《死にゆく他者を見守り支援するばかりだったこれまでの死生学を超越し、人間最大の難問たる「私」自身の死を人文学の知によって考究、そこから死に対する態度を再構築する。》
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-33362-4/
三浦俊彦の「エンドレスエイト」本も気になるが、ぼくにはどちらかというとこっちの方が気になる。
吉本隆明は「他界論」(『共同幻想論』)で次のように書いている。
《社会的な共同利害とまったくつながっていない共同幻想はかんがえられるだろうか? 共同幻想の〈彼岸〉にまたひとつの共同幻想をおもい描くことができるだろうか? 》
《いうまでもなく共同幻想の〈彼岸〉に想定される共同幻想は、たとえひとびとがそういう呼びかたをこのまなくても〈他界〉の問題である。そして〈他界〉の問題は個々の人間にとっては、自己幻想か、あるいは〈性〉としての対幻想のなかに繰り込まれた共同幻想の問題となってあらわれるほかない。》
《人間はいうまでもなく、じぶんの〈死〉を心的にじぶんで体験することはできない。そうだとすると、かれが〈死〉を心的に体験できるのは〈他者〉の生理的な死を死の体験として了解したときである。》
《人間にとって〈死〉に特異さがあるとすれば、生理的にいつも個体の〈死〉としてしかあらわれないのに、心的にはいつも関係についての幻想の〈死〉としてしかあらわれない点にもとめられる。もちろんじぶんの〈死〉についての怖れや不安でさえも、じぶんのじぶんにたいする関係の幻想としてあらわれるのだ。》
《人間はじぶんの〈死〉についても他者の〈死〉についてもとうてい、じぶんのことみたいに切実に、心に構成できないのだ。そのことの不可能さの根源をたずねれば〈死〉では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から〈浸蝕〉されるからだという点にもとめられる。》
ここに、人にとっての共同的な「物語(虚構)」の抜き差しならない根本的な不可避性と必然性があり、また同時に、その限界地点(フィクションのリミット)があると思われる。しかし吉本は、これだけ鋭いことを言っているのに、この点についてはこれ以上突っ込んで考察していない(少なくとも『共同幻想論』においては)。
そして「わたし」は、その先が知りたい(考えたい)。