●三鷹SCOOLに『関係-未来/愛について』を観に行った。小説家、大鋸一正が自分の小説をもとにつくった演劇。
小説「関係-未来」(『O介』所収)が描こうとしているのは、未来と関係してしまうということよりも、未来との関係をつくろうとする者の未来への無自覚さと無関係性の方なのではないかと、SCOOLに着く前に電車のなかで小説を読み直していて思った。
1994年当時の河口龍夫は本当に、自分がもう存在していないであろう2089年に、街路樹にはめ込んだ金属の輪を、立川市の職員がちゃんと南京錠を解いて外してくれると信じて、「関係-未来」という作品をつくったのだろうか。そんな契約が実行されるかどうかなどどうでもよくて(実行されるなどとは信じていなくて)、ただ、1994年の段階で、未来を思わせる装置をつくりたかったということだったのではないか。作品は、未来との関係を「想起させる」ことだけで満足し、本当に未来との関係(契約)をもたせようとなどしていないのではないか。つまり、「関係-未来」という作品には、現在と未来とが非連続的であり得るということが考慮されていない。
それは、子猫の胴に針金を巻きつけた誰かが、その子猫が成長して、徐々に胴に食い込む針金に苦しむ姿を「想起する」だけで自らのグロテスクな欲望を満足させ、その姿を実際に見届けることなく放置したことと、あまり変わらないのではないか、と、小説は問いかけているように思えた。この醜悪な欲望をもつ誰かは、子猫の胴に針金を巻きつけ、今は苦しんでいない子猫が、成長するにつれてじわじわと苦しみつづけるところを見届けることすらなく、想像しただけで満足し、しかしそれならばその後に針金を外してやってもよいのにそれもせずに、猫をそのまま放置した。これは、現在において「未来を想起した」だけで、未来と関係したことにはならない(むしろ未来との関係を拒絶した)という意味で、「関係-未来」と重なるのではないか。
小説においてこの二つの出来事は、原発から生み出される高レベル放射性物質の放出する放射能がもとのウラン鉱石と同じレベルにまで下がるのに10万年かかるという事実と併置されている。わたしたちは、原発によって10万年後の未来と関係をもつというのではなく、10万年後の未来となど関係が持てない(無関係だ)と思っているからこそ、原発を稼働させることができるのではないか。
子猫は、成長した後に、胴に針金を食いこませて苦しんでいる猫をたまたまみつけてしまったまったく無関係な「わたし」に出会うことによって救われることになる。その時、《針金の輪の直径は、わたしの手首の太さほどもなく、猫の胴回りに対しては半分もないようだった》、という様子だった。「わたし」は猫を部屋へ連れ帰り、針金を外し、獣医へつれていく。ペット不可の部屋に住む「わたし」は一度姉に猫を預けたり紆余曲折あって、けっきょくこの猫の世話をすることになる。この猫は針金の影響からなのか腎臓を悪くしており、アンモニアが体内にまわり、そのせいで頻繁に食べたものを吐く。そしてこの腎臓の疾患は治療できず、悪化の進行をできるだけ遅らせることしかできない、と獣医に告げられる。
そして、非正規で働き収入が手取りで15万以下の「わたし」は、自分にとって小さくない月一万以上の出費を猫の治療のために負担しながら、腎臓の悪いこの猫と暮らすことになる。
この「わたし」の存在(わたしと猫の出会い-関係)は、猫に針金を巻きつけた誰かが、巻きつけたその時点で「想起した」未来(関係-未来)とは別のものであるはずだ。そして「わたし」にとっても、そんな猫と出会ってしまう「現在」は想定外であったはずだ。猫に針金を巻きつけた誰かが想定した「関係-未来」は、それとはまったく無関係で想定外の「わたし」によって背負われることになる。つまり、想起された未来と、引き受けられた現在は無関係であり、しかし同時にそれは、「針金を巻きつけられた猫」によって繋がってもいる。ここには三つの異なる時間がある。誰かが、現在と未来との関係を想起しつつ何かを行う。しかしその行為(の責任、あるいは代償)は、行為者によって想起された未来と無関係に、偶発的にそれと結びつけられてしまった別の誰かが背負うことになる。そしてそれとはまた別に、行為によって引き起こされた何か(猫の苦痛)が持続している。猫と暮らす「わたし」は、猫に針金を巻きつけた誰かが想起した「未来」を引き受けたわけではない。そして、巻きつけた誰かは、その行為によって「未来」と関係できたわけではない。さらに、猫自身が、暴力を受けてそのようなものとされてしまった自分自身の生についてどう感じているのかもまた別の話だ。
おそらくここで、倫理的な問いが問われているのではない。ここで、「関係-未来」は実は未来と関係できておらず(現在から投射された未来への想定でしかなく)、「わたし」と猫との偶発的出会いである「関係-現在」によって事後的(逆向き)に過去との関係が生じる。それは、「わたし」がまったく無関係な他者の行為の帰結を背負わされるという形によってだ。それは、「関係-未来」が想起それた時点から非連続となった未来としての「現在」の出来事であり、その時「関係-未来」における未来は偽の未来(古くなった未来)となる。
ここで「関係-未来」の未来を古くする「関係-現在」を背負うのは、「関係-未来」という作品を市のプロジェクトとして依頼されるようなアーティストではなく、アーティストと契約したしの職員でもなく、無関係な、手取り15万にも満たない、将来(未来)の見えない非正規雇用の「わたし」だ。腎臓の悪い猫との生活を、偶然により引き受けざるを得なくなった「わたし」は、自分と猫との生活に「関係-未来」など見出せない。腎臓の悪化を、他の死因による死まで遅らせる(腎臓の悪化による死は猫にとって苦痛が大きすぎるから、それより苦痛の少ない死が訪れるまで腎臓をもたせる)という、未来を感じることのできない治療方針で、未来の見えない「わたし」が猫と暮らす。いつまで生きることができるかわからない猫と、いつまで今の生活がつづくかわからない「わたし」が共に暮らすことになる。未来はおそらく、このようにして、事前に仕込まれた「関係-未来」などと何の関係もない何かによって、偶発的な「現在」として背負われていく。繰り返すが、これは倫理の問題でもないし、何かを批判しているのでもないと思う。
(上の段落でぼくは、河口龍夫の「関係-未来」と、胴に針金を巻きつけられた猫の件という、まったく無関係な二つの事柄をまぜこぜにして記述している。というかこの小説がそもそも、関係のないと思われる二つの事柄の併置によってできている。この二つの「関係-未来」が投射する未来の、一方は人の一生より長く設定され、もう一方は人の一生より短く設定されている。それは、樹木の一生は人の一生より長く、猫に一生は人の一生より短いことによる。しかしそもそも、「関係-未来」が未来への関係ではあり得ず、現在における未来への投射でしかないとすれば、このタイムスパンの違いはあまり意味のないものとなるだろう。どちらにしろ「未来」を引き受けるのは、現在において想定される「関係-未来」とは、非連続的な「別の未来」における無関係な他人の「現在」ということになるだろうから。)
とはいえこの小説は、河口龍夫の「関係-未来」という作品を批判しているわけではないと思われる。むしろ、この作品が予測する未来は訪れない(「関係-未来」は失敗する)ということが可能であること、この作品の南京錠が、猫を拾った「わたし」のようなまったく無関係の誰かによって開かれることが出来ること、つまり、この作品はその存在として「間違い」であることが出来るということによって、逆説的に「未来」との関係を結び得ているのではないかとも言えるのではないか、と言っているようにも感じられる。「関係-未来」は現在と地続きでない未来が訪れることで「失敗する可能性」によって未来と関係している、と。この(河口龍夫の)作品は、未来との関係に「失敗することが出来る」という点こそが重要なのだ。
●このような小説「関係-未来」が、それを書いた作家(を中心としたチーム)によって演劇化される。おそらく、小説を書いていた時には、作家自身もこの小説を自分で演劇化すると想定されてはいなかっただろう。小説「関係-未来」は、河口龍夫の「関係-未来」のように、特定の未来との関係を「先取り」するような形式をもってはいないから、「関係-未来」の演劇化は、書かれた時には想定されてはいないとしても未来との関係において「失敗した」とは言えない(そもそも失敗可能性をもっていない)。
とはいえ、演劇「関係-未来」の実現は、小説家がその小説を書いた時とは「別の未来」が現在として訪れたことを示しているであろう。故に、その物語をそのままの形で反復することはできない。演劇「関係-未来」はその内に、小説「関係-未来」と演劇「関係-未来」との関係を含むことになる。
小説「関係-未来」を原作とする架空の映画「関係-未来」の上映の後の、監督と主演女優とのアフタートークという形式を演劇「関係-未来」はもっている。そして、そこで監督と女優によって話される世間話のような会話が、実は、(架空の)映画「関係-未来」の物語と同じであったということが、演劇「関係-未来」のなかで、小説「関係-未来」が朗読されることで分かる。ここでフレームが多重化され三重になっているのだが、しかしそれだけでなく、このフレームには時間差がある。小説「関係-未来」は何年も前にすでに書かれ、演劇「関係-未来」はたった今上演されており、映画「関係-未来」は未だ作られていない。演劇「関係-未来」の物語のなかではすでに上映が終わっている映画「関係-未来」は、本当は未だ存在していないということにおいて、(物語内容とは逆向きに)未来と関係をもっているとも言える。しかし、演劇「関係-未来」という作品自体は、映画「関係-未来」が実現されるであろう未来を「想定して」いるわけではない。小説「関係-未来」が演劇「関係-未来」を予測(想定)していなかったのと同じように、演劇「関係-未来」は映画「関係-未来」を予測(想定)しない。おそらく、もし映画「関係-未来」が実現する未来があるとしたら、それは演劇「関係-未来」が実現している現在から「想定される未来」とは、不連続性をもった未来としての「現在」においてであろう。
つまり、小説「関係-未来」と演劇「関係-未来」の関係は、演劇「関係-未来」のなかで、演劇「関係-未来」と映画「関係-未来」との関係、によって反復(交換)されていると言える。もし仮に、映画「関係-未来」が実現するとすれば、それは、演劇「関係-未来」が実現している現在から想定される未来とは不連続な別の未来が到来しているということになるのだから。
●架空の映画のアフタートークという形式をもつこの作品には、作品終了後に、映画監督と小説家のアフタートークがある。アフタートークという形式をもつ作品は、事前に書かれ、稽古されて上演されるが、その後のアフタートークの内容は、事前には決まっていないだろう。このような、作品としてのアフタートークと、実際のアフタートークとの関係もまた、小説「関係-未来」と演劇「関係-未来」との関係と、似たところがある。