2019-08-08

●たまたまた、「群像」9月号に載っていた野崎歓による『待ち遠しい』の書評を読んだ(「一人暮らしも楽じゃない」)。でも、これはあまり納得できなかった。以下に書くことは批判というより、この書評への違和感から(『待ち遠しい』という小説にかんして)気づいたこと。

この書評では、小説の登場人物たちの「年齢」が逐一示されているということが指摘されている。これについてはなるほどと思った。ただ、この点について、(プロフィールに年齢を記すことが普通に要請される)《日本的システムを灸りだす意味》をもち、《主人公・春子はそうした日本的感覚に深くとらわれている》と書かれているのはどうだろうか。

この小説において「年齢」のもつ意味はことなっているようにぼくには感じられる。2017年から18年にかけて書かれ、小説の舞台も書かれた時期ときわめて近く設定されていると思われるこの小説で、年齢が明示されるということは、生年が容易に推測されるということであり、それは、人物たちが育って(生きて)きた「時代」が具体的に想起できる形で示されているということを意味するのだと思う。つまり、人物たちは彼女や彼が生きてきた時代に強く紐づけられ、拘束された存在として描かれている。

4日の日記にも書いたが、『待ち遠しい』の登場人物たちは、「現在」に強く拘束され、社会的拘束、家族的拘束、経済的拘束、を濃厚に感じさせるように書かれているように感じられる。同じ区画に住居をもつことで無関係な人たちに関係が生まれるという設定は『春の庭』のバリエーションと言えるし、主人公・春子の性格や性質はこれまでのこの作家の小説と共通している。しかし、それぞれの人物たちがそれぞれのやり方で強く「現在」に拘束されているという点で、これまでの小説とは異質であるように思われる。

書評では、この小説で(五十男とされてはいるが)唯一年齢が明示されていない五十嵐という、得体のしれないひょうひょうとした人物をとりあげ、(実年齢を含め)相手のアイデンティティを固定することで自分自身の存在を縛りかねない主人公に対して、この五十嵐が《わずかばかりの謎を守る自由》を体現する人物だと書かれている。しかしこの読みが適当ではないように思われるのは、この五十嵐こそが、登場人物の中でその来歴がもっとも詳細に語られる人物であるとも言えるから。

五十歳前後である五十嵐は、バブル景気が最高潮だった頃に就職した世代である。彼は、その好景気に乗っかって証券会社に就職し、そこでたまたま頭のよい先輩に指導を受ける。好景気に乗った高めの収入と、堅実な株の運用によって一定の財産を得た五十嵐は、バブル崩壊による不動産価格の下落に乗じて中古マンションを購入する。五十嵐はその後ドロップアウトするのだが、現在は、そのマンションからの家賃収入と株の運用によって、細々とではあっても、生計をたてることができている。つまり、五十嵐という人物が、ふわっとした感じで存在し、昼間からぶらぶらして、たまに実家の仕事を手伝うくらいで(自由な雰囲気をまとったまま)生活していけるのは、彼が今「五十歳前後」というバブル世代であることと不可分であることが書きこまれている。

(五十嵐は、たとえば沙希のような人物とはあらゆる意味で「背景」がことなっており、そこには歴史的拘束、というものもある、と。)

だから、この小説で主要な人物のすべてにおいて年齢が明示されているのは、一人一人がまったく異なる時代状況のなかで育ち、まったく異なる背景のなかで(その背景に強く拘束されることで)生きてきたことによって、現在、このような人物としてある、ということを強く意識させるためなのだと考えられる。だから、この小説における登場人物たちの関係や対立や不理解は、個々の人物の問題であるのと同じくらいに、あるいはそれ以上に、その背景にあるものの違いによるものであるということが強く匂わされている(その「背景」の違いの一つに明確にジェンダーの違いも含まれるだろう)

(一種の、反自己責任論的な立場。)

●もちろん、個々の人物のありようが、そのような「背景」によって還元され切るということではない。背景の違いは(非常に強力なものではあるが)あくまで「違い」の一つとしてあり、それによってアイデンティティが固定されるようには---たとえば「同世代」であることによる同一化的共感のようなもの---は描かれない。その意味で、《わずかばかりの謎》どころか、他者たちの存在は常に謎だらけであり、謎だらけのなかでの手探りの関係こそが描かれているように思われる。