2019-05-16

●余裕がないなか「いかれころ」(三国美千子)を改めて読み返した。たいへん面白かった。掲載されている「新潮」の表紙に180枚と書いてあるのをみて「そんなに短かったのか」と驚いた。みっしりと濃厚に中身が詰まっているから、それなりのボリュームの小説を読んだような感じがしていたから。

やはりこの小説は、四歳の女の子の視点から語られるというところが大きいと感じた。彼女は直前まではものごころがついていなかったはずで、つまりは、彼女自身がそのまま「その土地(その土地の関係)の無意識」として存在していたはずだ。そして「ものごころがつく」というのは、世界(土地・関係)から、それを背景として「わたし」が浮かび上がるということであるはずだから、「わたし(ものごころ)」自体がひとつの(背景=土地・関係への)「違和感」であるはずだろう。

(ものごころがつく、というのは、それまで一体化していた地=世界から、図=わたしが分離するということだろう。)

視点人物である奈々子は、「土地の無意識」から、それへの違和感として「土地の自意識」として目覚める(ものごころが芽生える)。だからこの小説は、ある土地の関係やありようを一人の四歳の少女のという特定の視点から切り取ったというものではなく、「ある土地の自意識」としての「少女の視点」が立ち上がった、その視点の立ち上がり(視点の生成)そのものがが刻まれていると言えるのではないか。いまにも崩壊しつつあるが、それでもなんとか保たれている、ある土地(世界)があり、その土地のなかの人間関係がある。崩壊しつつある「その土地の自意識」として、(多数あり得る視点の一つとして)少女の「ものごころ」が生まれる。

ただ、この小説にあるのは、土地の自意識(違和感)としての少女の視点(ものごころ)の生成だけではなく、それを支え、補強するものとして、既に自律的な視点を確立した、少女の未来からの視点もある。どちらかというと、この未来からの視点こそが、小説を小説たらしめ、小説という形式を支えていると思われる。しかしだとしても、この小説の「核」としてあるものは、「視点の生成」の方にあるように思われる。