2022/02/12

Netflixで『地球外少年少女』の4話から6話。後半で急速にSF的なかまえをぐっと大きく広げたかと思うと、その広がったかまえも素早くパタパタときれいに折り畳まれていき、最終的には「少年少女よ希望をもって未来にすすめ」みたいな健全な落としどころに収まる(失敗を恐れてあきらめるな、もっと自由に考えろ…)。とはいえ最後に示されるのは希望であって解決ではない(危機的状況は回避され、子供たちは無事に帰還し、立派に成長を遂げるが、社会や環境の問題が解決するのではない)。

ダークだったりビターだったりする要素を極力排除しても、ここまでおもしろくできるというのは、見事といえば見事だと思うのだが、そのために一層、この物語のほとんど唯一の「苦さ」としてある「唯一の死者」のもつ重み(この人物はたんに展開を意外な方向に転がす仕掛けという以上に、これを排除したら物語としてのリアリティがなくなってしまうという、リアルな世界であるために最低限必要なネガティブ要素だろうと思う)に、強く動揺してしまった。少年少女の希望よりも、彼女の人生---が、このようなものであることの必然性---について考えてしまう。

(あと、最後まで観てみたらびっくりするほど「ガンダム」感があった。ガンダム+シンギュラリティという感じ。)

(新しい世代=子供たちの可能性を抑圧するなという「比喩」なのだろうが、そうだとしても、AIの知能リミッターを無制限に解除することを、ここまで無邪気に肯定してしまっていいものだろうか---この問題については、複数のAIによる相互抑制の必要性とその望ましいあり方として、つまり複数のAIによる権力分立のあり方としてVECTIONでけっこう突っ込んで考えているのだが---という疑問はあった。ここでは、知能リミッターの解除が、ガンダムにおける「ニュータイプ」のような意味をもつ。)

(黄泉の国に呼ばれてしまった人を連れて帰る話という意味では、『電脳コイル』と共通する。)

●着地点としては、どこまでも健全な少年少女の冒険と希望の話だが、他方で、そこに至る経路で「現代日本への口の悪い風刺(いじり)」みたいなのがちょこちょっことあって、そこには「毒」の要素があり、それは大人が楽しむところだ。口の悪さというのは、今ではとても貴重なものであると感じる。口が悪いのと口汚いのとの違いというのがあり、口が悪いのは笑えるが、口汚いのは笑えない。とはいえそれは、口の悪さが(この作品で肯定される、子供の冒険や挑戦や成長---つまり結果を先取りできない「未来」へ向かう行為---とは異なる)結果を先取りしたニヒリスティックで遊技的な大人の知性であって、知的であってもシリアスな批判には至らないという制約内---リミッターの内側---にあるからだ、ということでもあるのだが。とはいえ、遊技的な大人の知は重要であり、それがないと息が詰まってしまう。

(口の悪さが機能するのは、この物語において、環境や社会の問題は無視されてはいないものの、あくまで背景としてあるに留まるからだ、とは言える。だが、背景だからといって軽く扱われるのではなく、背景にあると想定されるものの分厚さや、それを具体的にみせる細部の充実こそが、この健全過ぎるようにみえる物語のリアリティを背後から支えている。)